新聞を読んで思ったこと


久しぶりに図書館で新聞を読んだ。
ここで読めるのは、朝日新聞と日経新聞の衛星版。日本にいた頃はざっと拾い読みする程度だったのが、ここでは貴重な情報源だということと活字への飢えで、ネットを使うようになるまでは、それこそ隅々まで舐めるように読んだ。


今では新聞を読むために図書館まで出向くことはほとんどなくなり、興味をひかれる話題がある時はネットで新聞社だけでなくあちこちのサイトをハシゴする。同じ事件に対する各メディアの意見を比べるのにネットは本当に便利だ。


でも、たまに新聞を広げると、ネットにアップされる記事はあくまでもダイジェスト版なんだと改めて思う。ひとつの事柄に対して割いている文字数が全く違う。
それに、当たり前のことだけど、新聞だと1面2面という掲載ページや活字の大きさでコトの重要性(その紙が何を重要視しているか)が一目でわかるようになっている。ネットはそのへんが曖昧だ。余程大きな事件なら少々扱いは変わるが、それ以外はほとんど時系列。同じ大きさのフォントで、たとえば「給食基準40ベクレルは誤り」のニュースの次に「ドリカム紅白辞退」「首相、皇室典範改正に意欲」と続き、新聞のように重要な順には並ばない。全て並列なのだ。


最近は新聞を取る家庭が減っているそうだ。確かにラッシュ時の電車で新聞を読むならネットの方がはるかに便利だし、メディアリテラシーを備えた大人たちにはざっとネット上の見出しを読めば何がどう重要かがわかるが、小学生や中学生が読んだらどうなんだろうか、とふと思った。


新聞というものが家の居間にあれば、TV欄をのぞくついでに三面記事を読んでいると、コンサートの前売り情報や新刊広告に目が行く。スポーツ欄を見てみれば、同じページの週刊誌の見出し、隣のページの連載小説、人生相談などが視界に入る。そうやって私たちは新聞を開く、ということをするだけで結構広く浅くいろんな情報を得ているのだ。
だが、ネットとなると1クリックで表示されるページの情報量は格段に少なくなる。しかも(広告以外の)「余計なもの」が同時に表示されることはない。
情報誌「ぴあ」の廃刊に奥田民生がこんなコメントを寄せた。「見たくないものを見るのが結構大事なのに。これがなくなっちゃったら好きなものしか見なくなるんじゃないか」。


並列するニュースの見出しの中から興味のあるものだけをクリックする。ブックマークしたサイトに直行する。自分の見たいものしか見ない。知りたいことしか知らない。そんな子供たちに少しでも「特に見たくないもの」を見せてしまうのが、従来のアナログ活字メディアだった。戦場の写真。福島原発の現状。世界を覆う不況の波。そんなものが、時にAKB48の記事の隣のページにあったりする。そういう「事故」的に何かを見せることが新聞や雑誌の大切な仕事であり、読み手にとっても楽しいことだったように思う。


偏りは時に感情を暴走させる、と誰かが言っていた。何事もバランスが大切なのだ。自分の中で大切なものと、世の中で大切なことの大きさを客観的に知ること。ただ、情報の内容より新鮮さに重きが置かれるメディアしか知らない子供たちには、世の中は益々わかり辛くなっているように思える。