真実の臨界点


反原発デモに参加したからと山本太郎が、「韓国ドラマが多すぎる」とブログに書いたと高岡蒼甫が、所属事務所を実質的にクビになった。
ほんと、なんだかなあ、な話である。
そこに、ふかわりょうが「高岡事件」に一歩踏み込んだ発言をしたのだが、これが面白かった。ネット上ではその数日前にひろゆき氏が「フジテレビと日本テレビの株が法律で定められた外国人株主比率の上限の20%を超えている」という発言をしており、ふかわりょうの発言はそれを受けたもののようでもあった。
TV局は株主様と番組スポンサー様がいないことには成り立たない。
その株主やスポンサーが韓国人・韓国企業で、彼らが「もっと韓流をアピールしてください」と言えば、局側としたらそれは、ビジネス上そうするしかないよなー、おカネもらってんだし。ということになってるのは十分有り得る話だ。


そこでふかわりょうは「影響力がある公共の電波を用いて一企業の私腹を肥やすやり方を推進するのは違反なことだと思う」と指摘。さらに、局がお金をもらってK-POPのCMを流すのと、番組の中で流れるのは「決定的に違う」と言う。
確かに、純粋に韓国ドラマやK-POPのクオリティーを認めて放映するのと、私服を肥やすために韓国製ならなんでもかんでもタレ流すというのは違う。でもそれがどちらなのか、視聴者には見極めが難しい。
そこで国際政治問題に発展する前のストッパーとして、「無意識下の洗脳」などないよう、公共メディアに於ける外国人による株の独占などが法律で規制されているのだろうと思う。でもどうもそれが守られていないらしい・・・。


報道は偏重のないものであってほしい。が、その難しさは今日本人がまさに目の当たりにしていることだ。利権をチラつかせ、スポンサーとしてカネをばらまく電力会社や電気メーカーが、どんだけTV局、新聞社など大手マスコミだけでなく政治家までをも牛耳っているか。
問題は「原発」と「韓国ドラマ」であっても、この二つの問題の根っこはまるで同じなのだ。不況になって加速したカネ偏重主義の流れはもうどうにもできないほど日本の「公共」を蝕んでいるのは確かだろう。


そして彼はもうひとつ問題提起をする。
「言論の自由って言うのが、言葉だけは存在してるけど、実際にはすごく閉鎖的で言語統制がされているような殺伐とした空気感、村八分感が未だに続いていて、なんか違うことをうやるとやり玉に挙げられる」
「これっておかしくない?」
これはもう日本に住んでいたら誰もが感じていることだろう。もっとも「和」を大切にする日本だから昔からこの傾向はあって、ご存知のように「出る杭は打たれる」という諺が存在する。でも特にここ十年くらい、ユニークな意見を持つマイノリティーへのバッシングは確実に増え、また卑劣なものになってきているようだ。
それもあって皆自分の意見を言うことを怖れてしまってるんだと思う。ヘタに意見を述べて反論されるのが怖い→イエスマンになってストレスを溜め込む→自分の意見を堂々と言える人をねたましく思う→叩く。そんな改革の芽を摘むようなエンドレスな「内戦」が起きているような気すらする。


70年代、ポルポト政権下のカンボジアでは、政府のしていることの明らかな矛盾に気づき改革を企てそうな優秀な人間、学者・医師・教師・技術者などがまず殺され、最後には字が読めるだけでも殺された。この後のカンボジアの復興がどれだけ大変だったかは、想像に難くない。
そこまで凄まじいものではないにせよ、今日本を覆う閉塞感は、なにか意見を持つ人に口をつぐませるものがあるのは確か。それが状況を益々悪化させているように思える。


あー、こういう昨日今日始まったわけじゃない問題って考えるだけじゃどうにもならない。
「あることを真実だと思う人がある一定数に達するとそれは万人にとって真実となる」=情報というものはある臨界点を過ぎると一挙に広がる、という考え方がある。オノ・ヨーコさんの言った「ひとりで見るのは夢だけど、みんなで見れば現実になる」と同じ。それを信じてひとりひとりが勇気を出して、小さなアクションでいいから、ふかわりょうのように「こんな世の中イヤだ」を主張していくこと、それが大事なのだと思う。多分そこにしか改革の突破口はない。


吉永小百合も反原発発言をして、これでマスコミも反原発=危険人物という従来の扱いをし難くなったんじゃあるまいか。こういう小さなヘルプを大事にしたい。
小百合ちゃん、グッジョブ。