祝・堂本剛「NIPPON」発売


私はある時まで全くクラシックミュージックというものを聴かなかった。
音楽の授業で聴くそれは眠気を誘うだけであり、楽器を弾くということにも全く興味を示さず、買い与えられた電子オルガンにも寄り付くことのないコドモであった。


そんな私が最初に聴いたのが、オペラ歌手のリサイタルだった。招待券を持つ友人に誘われ、気まぐれに行ってみたのだ。
当時はまだ世界三大テノールのブームの前だったが、既に60を超えているだろうと思われるそのイタリア人テノールは往年のスターであったらしく、結構大きな会場が満員だった。
歌われたのは、(後で知ったのだけど)有名なイタリアンオペラの鉄板中の鉄板といったアリア、そして民謡。舞台にはオペラのような装置も演出も全くなく、ピアノ伴奏に生声だけ。ここで私は初めて「人の声の力」というものを知る。
全盛期の声は望むべくもなかったであろう老テノールの歌には、何かひどく心を打つものがあった。失くした声を埋めるための気迫以上の、何かが宿っていた。気がついたら泣いていた。
http://www.youtube.com/watch?v=9NQniGmtiy4&feature=related


その数年前、「ブルガリアン・ヴォイス」が話題になっていた。ワールドミュージック・ブームに乗ってリリースされた、ブルガリアの女声合唱団のアルバム。
イスラムの影響が残るスラヴに生まれた独特な音階、寄せては返すさざ波のような不協和音が不思議と心地よい。いくつもの民族に蹂躙された歴史の中で、豊かな大地に根をはって生きる人々の息づかいが聞こえる。その”豊饒の音楽”に惹かれ、しばらくそればかり聴いていた。
http://www.youtube.com/watch?v=kuTbM0R0ADQ&feature=related


声というのは、どうしてこんなにも人の心を引きつけるんだろう。何も知らず言葉もわからずにただ聴いた者の中に、なぜこんなにもクリアーに彼らの歌う情景が広がるんだろう。声にはどれだけの情報が込められるものなんだろうか。


80年代にこんな実験があった。
日本人の詩人に同じような音声構造を持つ日本語の短い詩を三つ選んでもらった。一つ目はまったく意味を成さない脈絡のない言葉を集めた詩、二つ目はこの実験のために書き下ろした新しい詩、三つ目は日本の伝統的なわらべ歌の歌詞。その三つの詩を日本語を全く理解しない英語圏の人々に暗記してもらうのだ。その結果、あるひとつの詩が他のふたつよりはるかに簡単に暗記された。それは、わらべ歌。


「命を吹き込む」という言葉があるように、息=声を吹き込まれたものには特別な力が宿る。長い間愛され、歌い継がれてきたわらべ歌の言葉のひとつひとつに宿る人の想い。言霊。その音はいつまでも止むことなく響き続け、聴く者の心に鮮やかなイメージを描き出す。


堂本剛が紡ぎだす詩には、大和言葉が薫る。字を持たなかった時代から現代まで使われている、美しく柔らかい響きを持つ私たちの言葉。そこに彼という歌い手=シャーマンの、gifted−天からの授かり物−な声が、また新たな命を吹き込む。


想いを込めれば、それは言葉を理解しない人々の心にも必ず届く。


2011年10月21日、堂本剛「NIPPON」欧州15カ国にて発売。おめでとう。



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[追伸] なんとAmazon Italiaでは17日よりフラゲが開始されていたらしい・・・。
が!郵便事情最悪のイタリアで、Amazonとは言えネットショッピングしようというようなことは、あまり考えない方がよろしい気がします。老婆心ながらご警告申し上げます。
でも、こっちではどうもインディーズ系の発売日なんてゆる〜いみたいで、Neo Tokyoも前日フラゲ全然OKみたいなことを言ってました。なぬう。ナメとんのかー。
てか、本来なら喜ぶべきところですが、よんどころ無き事情によりわたくし、Neo Tokyo突撃が不可能になりましたので(涙)、郵送を依頼いたしました。早く届かないかなー。