13年目の「青の時代」


なんとなく動画サイトを観ていたら、98年に剛っさんが主演した「青の時代」の第一話、二話がupされていた。
私はザンネンなことにKinKiのふたりがドラマに出まくっていたこの時期を全く知らないのだ。てなことを以前書いたら、どなたかにオススメいただいたことがあった「青の時代」。19歳の剛っさんをおもむろに拝むことに。


ふむ。新鮮だ。この年頃の男子の2歳のオス猫みたいな体型、つるつるした肌。
そして、恐れを知らないひたむきでまっすぐな目。そうそう、この目に私は惚れたのだった(つい去年の話だけど)。
しかし、そんなうっとり目線の私を置いて、ストーリーはいきなり思いっきりやりきれない方向に進んでいく。人の純真さを描くのにはこんな方法しかないのかあー。
唯一観た「人間・失格」で憤怒のあまり三日三晩悶絶した経験のある私。もうこれ以上は観たくないかもー。


なんか嫌な結末を想像してしまうのは、まずドラマのオープニングテーマが「ポーリュシカポーレ」て。あれは勝利を信じる無垢な若き兵士たちが広きロシアの大地を出征してゆく歌じゃないのっ。しかも第一話で安積リュウが茜から借りた「車輪の下」は主人公が誰にも理解されないまま死んでいく話。ドラマの伏線(多分)になる小道具がすでに琴線に触れ過ぎ。反則だっ。(泣)


実際にはこのドラマが「車輪の下」を下敷きにしてるかどうかは知らないけど、この話はヘッセ自身の十代の頃の姿がモデルとなっている。
聖職者の家庭に生まれたヘッセはその環境に呑まれるように神学校へ進むが、プロテスタント的な教義に反発、ドロップアウトする。その後機械工などを経て小説家となるが、とにかく社会の「車輪=歯車」の一部となって生きるのが嫌な人だったらしい。母方の祖父がキリスト教だけでなくヒンドゥー教や仏教にも詳しい人で、彼の作品にはその影響も見られて奥深い。
実は今その中の一冊を読み返していたところだったので、ドラマに彼の本が出てきて驚き。うーむ、これは必然かっ。


ヘッセの作品、オトナになって読み返すとより心の奥のほうにぐぐぐと来る言葉が多い気がする。
「聖書を汚しちゃいけない。けれど魂を損なうよりは肉体を十度滅ぼすことだ」
「世の中に美しいものが沢山あることを思うと自分は死ねなかった。だから君も死ぬには美しすぎるものが人生には多々あることを発見するようにしなさい」
そんな話なんだろうか、「青の時代」。最後まで観ようか観まいか悩む。


しかしなんだなあ、この時代のドラマはきつくない?当時子供だった人たちはこんなの観て育ったら世の中に出ることや人の心が怖くなったりしなかったんだろうかと心配になるほど、真実を伝えることの難しさがこれでもかと描かれる。
今の世の中の、なんとなく本当のことや本音を話すのを避けているような風潮や、「本当の私は普段隠れている弱くて醜い私なのっ」的偽悪妄想、それはこの「青の時代」の時代を経てきた結果なのかもなあと少し考えさせられる。