自己完結編 「プラトニック」と「幸福な王子」


ええ加減そこから離れたいとは思いつつ、なんとなくラストの青年の気持ちにモヤり続けていた。と、唐突にわたくしの海馬が「ほれっ」と吐き出した遠い「モヤッ」な記憶、「幸福な王子」。
子供心に「かわいそーすぎる!」と、何故これが感動の物語なのだとモヤったあのかんじが今のフィーリングに酷似している。誰もが子供の頃一度は読んだことがあると思われるオスカー・ワイルドのあのお話を今一度読んでみる。


ある町に幸福な王子の像が立っていた。薄い金箔に覆われ、両目にはサファイヤ、剣には赤いルビーがいくつもはめ込まれ、その美しさゆえ皆に愛されていた。
そこにエジプトに渡る途中のツバメが飛んできた。王子の脚の間で休憩していると頭の上に大きな水滴が。雨かと思ったそれは王子の涙だった。
「どうして泣いているのですか?」
「生きていた時は私は泣いたことがなかった。美しいものしかなく、悲しみが入り込むことのない宮殿に住んでいたから。だが、ここからは街のすべての醜く悲しいことが見えるのだ」


そして、王子はツバメに、自分の体から宝石を剥がして貧しく悲しい思いをしている人々に届けてほしい、と頼む。寒い冬が来る前に旅立たないと死んでしまう。と、ツバメは早く美しく楽しい南国へ向かいたかったのだが、悲しそうな王子の顔に断ることができず貧しい家の病気の少年の元へルビーを届ける。すると、寒い季節なのにとても暖かな気持ちがした。それを王子に伝えると、
「それはいいことをしたからだよ」。


ツバメはそれからも王子のお使いを果たした。もう宝石がなくなった王子の体から金箔を剥ぎ取り毎日貧しい人々に届けた。
気がつくと王子はみすぼらしい灰色になり、街にはもう雪が降っていた。ツバメは言う、「さようなら、王子様。私はもう死の国へゆきます」。王子にキスをしてツバメは幸せそうにその足元で息絶える。


敬虔なクリスチャンだったオスカー・ワイルドの宗教観がそのまま反映された物語。日本の小学生には「一日一善」的なことはわかっても、命までかけて人に尽くす姿に「ツバメ、なんで適当なとこで切り上げて行っちゃわなかったんだよう。また来年続きを手伝えばよかったじゃんか。死んじゃダメじゃんかー」という思いが強かった。
これが、まさに青年に言いたかったことと重なるのだ。
(この先、#7、8でまとめた感想と変わってる部分があります)


ツバメが死んだところで私の記憶は終わっていたのだけど、改めて読むとこんな続きがある。


みすぼらしくなった王子の像に町の人々はがっかりし、「乞食のようだ」「他の像を建てよう」と王子の像を壊し、溶かしてしまおうとする。しかし不思議なことにいくらやっても鉛でできた王子の心臓は溶かすことができず、ツバメの死骸の横たわるゴミ捨て場に捨てられる。
ある日神様は天使に「町の中で一番尊いものを二つ持ってきなさい」と言いつけ、天使は王子の鉛の心臓とツバメの死骸を持ってくる。
神様は「よくやった」と天使を褒め、王子とツバメは天国で幸せに暮らした。


この童話を下敷きに考えると、青年の気持ちがわかるような気がする。
彼はある時、沙良や家族に愛されていることに心から感謝し、「生きたい」とか「愛されたい」という私欲を捨てたのだ。弟に電話をした日、子供たちとサッカーで走って汗を流す。あの時、青空の下で彼は思った。「沙莉にこの素晴らしさを体験させてあげたい。この心臓で」。


それは青年の心にとてもしっくりきた。ただ、そうしたいと思ったのだ。
そこに起きた強盗事件は彼にとって大きなチャンスだった。これが運命なのだと悟った。青年は頭の回転が速い人だから、あそこで現金を渡せば刺されることはないことがわかっていた。しかし、彼は犯人を挑発した・・。
刺されたとは言え、実質的には自殺。そこがモヤモヤの根源だったわけだが、キリストもまた民衆のために自ら十字架に上った人なのだ。ゆえにキリスト教でも基本的に自殺は罪でありながら、自分の命を賭けて誰かを救う自己犠牲は至上の愛と賛美されるところがある。


最初はツバメのように、生きることを心の奥底で切望していたのに、人の心の悲しさをそして温もりを感じているうちに、「そこに救われなくてはならない人たちがいる」という天啓に打たれた青年。その人たちの小さな心の安らぎのためにアロマを配った彼は、最後には沙良には愛を、沙莉には心臓を与え温かな気持ちのまま満足して死んでゆく。
青年はツバメであり、王子であった。そしてそれはまたキリストのイメージでもある。生きようとすれば生きられたのに、神の愛に触れ、自らの喜びとともに死を選び、天に召される。
「愛したときが、彼が死ぬとき」。謎めいたコピーも一番最初に「神を」と入れるとひとつの大きなメッセージが見えて来る。


野島さんがクリスチャンかどうかは知らない。ただ、彼のこだわる無償の愛、至上の愛とはこういうものなんだろう。
その野島さんの「至上の愛」は、「とにかく生きろ」と言われて育つ現代の日本人には理解しにくい。しかもそれを「幼少時のトラウマを抱えた人々」なんてテーマとパラレルに進行させ全8話にブチ込み、サスペンス風味に仕立てた「プラトニック」というドラマがわかりやすいはずがない。


なぜわざわざそんな風に仕立てたのか野島さんをコーナーに追い詰めて聞き出したいくらいだが、わかりにくいからこそ深く自分の内側をのぞき込むことを強いられるのがまた面白くもあって、生死観、恋愛観、家族観、宗教観etc..自分の持ついろんな刷り込みや思い込みなど、改めて考えることの多い作品であった。


オスカー・ワイルドの言葉にはこんなものがある。
「人の心の中には誰にも奪えない途方もなく尊いものがある」


これでもう「プラトニック」という物語を振り返るのは終わりにしたい。剛さんの演技とかちびちびと機会があるごとに記してゆきたいとは思っております。