Fashion&MusicBook 「瞬き」に託した想い


先日のFashion&MusicBook、「瞬き」に込めた今の心情を、一言一言ゆっくりと言葉に紡ぐ剛さん。「優しさ」ってなんだろう。


< この瞬きという曲を作っていく作業の中で、スタッフに「剛は優しすぎやしませんか?」と言われた。
「今まで書いてきた歌は、すごく言葉を選んでる。それは非常に大事なことだし、美しいことだと思う。ただ、選べば選ぶほど、優しくなればなるほど、言葉というものは広い意味を持つことになる。日本語っていうものは、そもそもそういうものだし、剛のテーマはブレていないけれども、もっとスピード感がある言葉を、という選び方ももっとしてもいいような気がする。何か気を遣って言葉を書いてないか?」って。
まさにそのとおりだった。


僕自身が目に映せている「今」を、僕が生きている時間ではない時間を体感し、経験されてる方に対して投げる時、その方の「今」に対して首を突っ 込みすぎずに、言葉を使ってそっと寄り添いたい、という想いがあって。だからスピード感やエッジ感がある言葉っていうものをやめていた。
例えば「瞬きするたびに大切なものが消えていく」っていうスピード感と、「心の目が瞬きするたびに大切なものが消えていく」という言い方では、意味も変わってくる。今回は僕自身のわがままというか、覚悟っていうものを書きたかったし、自分自身に対しての誓いみたいなものもあって、余計な言葉をそぎ落とした。スタッフの方に言われたこともあったし、歌詞を見てもらったら「すごくいい歌詞だと思うよ」、と。
「これからは、ファンはたとえ剛がそう書いていたとしてもわかってくれるはず。優しくなりすぎて言葉を選ぶ必要はないんじゃないのかな」。そんな話をしながら、この曲は完成した。今の僕の生きている中での覚悟、感じたものを「瞬き」に託す。曲を書いているうちにそういう気持ちになっていった。


東北の震災の時、こんな時こそ何か曲を書こうと思って全く言葉が出てこないという自分に出会った。こんな大変な時には音楽よりもまず大切なものがある。衣類とか食糧とか。そんなことを考えて、たやすく言葉を書けなくなり楽器も持てなかった。音楽の力というものを少し疑った瞬間でもあった。「でもきっと時が経って音楽が欲しい人が出てくる。その時に必要なものはなんだろう」。そんなことを考え始めて、言葉選びはどんどん慎重になっていった。


その中で「瞬き」を書くことになった時、とにかく自分の中にある優しさみたいなものを削ぎ落として書きたいと思った。今後も同じ状態で歌詩を書くことが多くなると思う。でも、決して優しさを忘れたわけではないと思っていてほしい。


一人でも多くの人を救いたいと思い、あまり集約された言葉を選びたくなかったり、自分のわがままを書きたいと思わなくなったことが、「きみがいま」の、心で見つめて眼球で見つめて身体で見つめて・・すごく大きい意味で、♪いまきみが見つめているものをぼくが信じてあげるよ♪っていう言葉になっていったりした。


そうやって悩みまくって書いてきた曲がいっぱいある。その悩みを少し解消して書いていくことを、今後少しするかもしれない。それをしたことで人を傷付けるようなことがあったら嫌だなと思うけれど、誰も傷付けずに自分の生き方、訴えを投げるのは相当難しい。でも、大きい言葉を減らして、すごくストレートに書いていくことをやりたい。


僕が今見ている景色や今生きている景色を、もっと言葉を勉強して、目を閉じていても伝わるようにきちんと言葉を綴って、それを想像できるような音をもっと勉強して、歌詩とリンクさせながら音を鳴らしていく。そういうことをもっともっとしながら、削ぎ落とした言葉というものを綴っていかなければいけないのかな、と思う >


何度も繰り返される「優しさ」という言葉。
「難しい歌ですね、って言う人も多い。命の危機とか、岐路に立たないとこの歌の意味わかってくれへんのかな」、という不安を抱え続けた堂本剛という人の「優しさ」は、”千手観音のように自分を求める人たち皆に等しく手を差し伸べようとする気持ち”、とでも訳せばいいのか。「優しく」しよう とすると「易しく」ならないジレンマ。


確かに「瞬き」(とそのカップリング曲)はこれまでの曲より感情がクリアでストレートに伝わってきた。「優しさ」のフィルターを通さない素の「うた」は、人の琴線をひどくかき鳴らし、忘れようとしていた蓋をこじ開けられて、私のように声をあげた人も多かったと思う。でもそれを残酷だとは思えなかったのは、彼に同じ喪失の痛みを共有するひとりの人間を強く感じたからだ。


彼はよく「人を救いたい」と言う。時々思う。彼はどこかで「転ばぬ先の杖」になろうとしていないか?千手観音のように注意深く皆に目を配り、転ばぬように手を引き、一度きりの人生を説く。
でも、今彼はその在り方を変えようとしているように思える。向かい合い見つめあう「優しさ」から、同じ方向を見つめ歩いてゆく「優しさ」へ。思えば、去年のShipでステージから降り、私たちと同じ目線の高さを歩いた、あの延長線上に彼の今の心境の変化があるんじゃないだろうか。
ただ突き放すのではない。手を引くよりも、転んでも自分で立ち上がるのを待つ。人の強さ、自然治癒力を信じる。「信じる」ということが彼の言う「優しさをそぎ落とす」ということならば、「人を傷つけるかもしれない」と思う彼の不安は杞憂に過ぎないと思う。


次のステージへと一歩踏み出した剛さんの見せてくれる景色は、一体どんなものだろう。


きみがいま
見つめているものを
聞いて…
ぼくが信じてあげよう
ぼくが信じてあげるよ