河瀬直美監督@ロカルノ映画祭 ①


「塵」(2012年)・・・今年2月に96歳で亡くなった最愛の養母・宇乃さんの「人生の最終章」を描いています。ひとりの女性の晩年を見つめながら、家族への親愛、故郷への憧憬、そして共同体の絆など、生きる上で、かけがえのないものは何か、と問いかけてきます。それは、私たち日本人が喪ってしまった、伝統的な共同体の縁をもう一度呼び起こし、新たな感性で編み直すことを表しているのではないでしょうか。 
※ 残念ながら私は見逃してしまったので、下記の「塵」上映イベント記事より抜粋させていただきました。
<学びの應典院 コミュニティシネマ> http://www.outenin.com/modules/contents/index.php?content_id=647
<河瀬さんのプロフィール> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%80%AC%E7%9B%B4%E7%BE%8E

         
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


河瀬直美(映画監督)/Jean-Michel Frodon(フランス人映画ジャーナリスト)対談 @ 第65回ロカルノ映画祭


JMF : ようこそ、ロカルノへ。10年ぶりにいらしていただいて、本当に嬉しいです。これから「塵」という映画について、そしてその後、その他の作品についてもお話をしていきたい思います。
河瀬さんは自伝的というか、常にパーソナルなものを作っていらっしゃる。家族をテーマにした、家族関係・人間関係をテーマにした作品が多いですね。その中にはフィクションも何本かあり、その作品のひとつである2011年に作られた「朱花(はねづ)の月」が、今度スイスでも上映されることになりました。
河瀬さんの活動は映画監督だけにとどまらず、現在はプロデューサーとしても作品に関わっているんですね。とても歴史のある故郷の奈良の町では新しい映画祭を主催されるなど、広く活動されています。それではいくつか質問をさせていただきます。
最初に「塵」というのはどんな意味なんでしょうか?


河瀬 : 英語のタイトルでは「Trace」とされていますが、「ダスト=ゴミ」というのが一般的な意味です。ただ、隠れた意味で「先人の遺志を継ぐ」というという意味がありまして。私を育ててくれた養母−96歳で亡くなりましたけども−この養母を「先人」と見たならば、彼女の遺志を継ぐ、というような意味を込めて、そして日本人として、またひとりの人間として、前に生きた人たちの思いを継いで表現する、そういう意味でもあります。


JMF : 「塵」は古い言葉なんですね。それに「垂乳女(たらちめ)」や「きゃからばあ」も現代の日本人が知らないような言葉だそうですが、河瀬さんにとっては、その古い言葉が大切だったようです。「古いこと」を大切にしていることについてお話しいただけますか?


河瀬 : 例えば、スイスでこれから公開される作品の「朱花」というタイトルも、万葉集という日本が誇る古い歌集がモチーフになっています。そういう言葉は、今の日本人が知らないことが多いんですが。私の中で心を表現するのには言葉だけでは足りないことが多いので、映像というものに置き換えるんですが、その「映像の言語」というものが、言葉より心に近く存在していると思っているんです。そういう時、映画を作った時のタイトルも、ただわかりやすいタイトルをつけるのではなく、むしろそこからもう一度深く心に寄り添うように感じる、深く感じるために、新しく見えて実は古い言葉を持ってくることで、皆さんとその感覚を共有したいと思っています。


JMF : ここで上映されている5本の作品(今回コンペティション外で「塵」「垂乳女」「きゃからばあ」「かたつもり」「につつまれて」の5本が上映された)の中で、家族をテーマにした作品は非常にドキュメンタリータッチで描かれていて、いつでもどこでもカメラが回っているような感じで瞬間を捉える撮り方をされてますが、そのことについて。


河瀬 : 私は「自分の人生をまっとうに生きる」ということがまず第一だともちろん思っていますが、その反面、限りなく自分の人生に近いところで映画を作る、ということもしています。
ですから、その瞬間そこにカメラがある、ということがとても重要になってくるんですが、そういうアンテナをいつも働かせているということや、常にカメラがある状態にしておくというのは、とてもストレスのあることです。自分の身体だけで生きていればいいものを、カメラという違和感をそこに存在させてしまう。でもそのストレスがあることで、かけがえのない時間を記録することができる。そして、作品はその記録されたものを通してまた新たな皆さんと出会うことにもなる、という、それが素晴らしい映像というものの魅力だと思うんですね。だから私はできるだけ「作られたもの」ではなく、リアルにそこに存在するものにカメラを向けて、それを切り取りたいという風に思うんです。


通訳の方 : 「まっとう」って何ですか?(彼女はイタリア系スイス人でフランス語と日本語が話せる方で、言葉の意味がよくわからなかったようでした)


河瀬 : 「まっとうに生きる」っていうのは・・何でしょうね。正しく生きるっていう・・。(笑) 「まっとう」っていうのは「正しいこと」なんだけど、じゃあ何が正しいのか、って言われたらちょっと答え辛いですけど・・・人は生きるということに対して迷いを持っているものなんじゃないかなとは思ってるんです。それを、「正しくしよう」としている生き物なんじゃないかなと思います。


JMF : おじいさんが亡くなる前にテープレコーダーで声を録音して欲しいというところが「塵」の中にあるんですが、非常に大切なことだったのにそれをしなかったのが、今の河瀬さんの考えの「核」になったのではないですか?


河瀬 : おそらく、おじいちゃんが言った「テープレコーダーを持ってきなさい」という言葉に対して、私はその時まだ14歳で、それを録音する意味もわからなかったし、過去のことから未来が続いていくことも、あまりうまく理解できなかったんだと思います。大体の人は、「今」っていうことをただ生きているだけなんじゃないかと思うんですけど・・。
私は実は映画を始める前、バスケットボールの選手で、国体にも出場するほどバスケットに燃えている少女だったんですけど、その最後の試合が負けている試合だったんですね。あと1分、あと15秒、0、という風に残り時間がカウントされていく、時間が流れていく、というその感覚を、選手としてコートに立って経験した時に、何かわけのわからない涙が出てきたんです。時は、時間は止めることができないんだ。それは同じ人間、もしくはこの世界に生きている全てのものの元に、同じように流れていく。その感覚に対して涙を止めることができなかった。
で、それが一体何なのかわからないまま学校を卒業して、バスケットボールもやめた時に、突然、映画が私のもとにやってきたんですね。カメラを持って、その今っていうものを記録したならば、その時間をその中に閉じ込めることができる。そして、暗闇と光があれば、それを再現することもできる。こんなに私にとって素晴らしいものはないな!と、そこでものすごい驚きと出会いがあったんです。それが私の映画作りの原点、なんです。


<続きます>