「プラトニック」#7 なぜだろうなぜかしら


「女は悪魔にも女神にもなれる」、ってまあさおばさんじゃないけど、悪魔だった前回に比べると今回の沙良は女神、もしくは天使。


あれだけ青年を振り回し傷つけまくりイジワルな少女のようににっこりと微笑んだ沙良、怒りに震えながら沙良の心を疑った青年が、なんだか何事もなかったかのように平穏に暖かな愛の巣でいちゃこらする姿に、どうにも感じるちょっと待てよ感。
ま、それは横に置いといて。この時の青年はもう既に自分に回復の可能性あるのを知っている。しかし沙良を苦しめまいとそのことを隠しつつ、お互い一緒に過ごせる刹那を楽しもうとしている。
佐伯や和久、倉田医師にも口止めをした様子もないから、いつかわかってしまうことと思ってはいるんだろう。ただ、自分の心の波紋がおさまるのを待っていたのかもしれない。


しかし、再検査で医師からその「奇跡」を聞いた時、青年は突然弟に電話をする。弟の弾んだ声、「兄さん!?兄さんだろう!?」。その後の弟の声は聞こえない。でも剛さんの演技で弟が兄の無事を、そして回復するかもしれないという言葉に喜んでいる姿が手に取るようにわかる。回復する可能性を佐伯と和久に告げた時の辛い記憶、そして沙良の複雑な胸の内を思い告白できずにいる状況で、誰かに心から自分の生を喜んでもらえる嬉しさ。


そして、やっと自分の生を確かめるように青空を仰ぎ、この世界を感じる。その流れには、「生きる」という未来への視線が感じられる。


・・・と見えたが!が!HPにある最終話の予告を読むと、「青年は医師に、腫瘍摘出の手術は受けない選択もあると告げる。沙良への愛を貫き、沙莉に心臓提供することが自らの運命と思い込んでいた」とある。
ということは、青空の下のあのスッキリ感と夕陽を眺めながらの安堵感は、死の恐怖を超越したところから生まれたものだったのか・・?
弟の愛と沙良の愛を信じることができた今、青年は死の恐怖に打ち勝って本当に安らかな気持ちになれた、ということなのか。


しかし、愛する人のために自分の生きる可能性を捨てる、それは果たして愛なのか。今回の冒頭にあった、「自己犠牲」という言葉。自己犠牲と愛はとてもよく似て異なるものだと思う。どちらか片方の犠牲の上に成り立つ幸せを愛と呼ぶのは違う。ましてや自分の命を差し出すとなれば尚更。自分の心臓なしで沙莉が生き延びる可能性を探しながら沙良と二人で笑顔になれる、なぜその道を青年は選ぼうとしないのだろう。


ラストのシーン。夕陽のオレンジ色の光の中で、沙良と青年が別々の場所で同時に目を閉じる。そして、青年が先に目を開ける。これは、青年の覚悟ではなく覚醒のイメージだと思いたい。


元々心理学の本を読むのが好きなので、この一連の青年の心理に興味が湧く。
このドラマ、青年のように孤独を感じて生きてきた人や、沙良のような幼い頃に家族と引き離され、本人も気づかないうちに心に傷を負った人の性癖、行動とかの描写にとても説得力あるなあと思って観て来た。今回、和久が万引きちゃん・美和に告白するシーンも、姉と同じ傷を持った彼の内面の脆さに胸が痛む思いがした。


野島さんはこの「愛と死」のドラマの中に、愛することに不自由な人たちを沢山登場させた。そして、その根源が家族との関係にあることを、登場人物たちにそれとなく語らせることで物語の説得力を深めてきた。誰かに愛されたという実感のないまま生きてきた人たちは、自分の中にある愛情をどう表現したらいいのかわからず、過ちを犯し、傷付けあう。それは観ていて胸苦しいほどリアルだ。
ここでも、「愛されたい人間」である青年は愛されようとして自己犠牲を愛と見誤るのか、それとも今人の愛を感じたことで、再生し、その過ちに気づくことができるのか。


「明日ママ」では、「血は水よりも濃い」という”常識”に真っ向から疑問を投げかけ、子供にとって家族とは?愛情とは?ということをもう一度考えようというテーマがあった。そしてこの「プラトニック」でも、野島さんは同じ疑問を人物設定に織り交ぜ、彼なりの答えを見せてくれるのだと思う。野島さんにとっての「愛と死」がどんな風に結論付けられるのか。最終回がとても楽しみだ。