番外編 プラトニック・コード 


これほど脚本と演出に気持ちを右往左往させられるドラマも珍しいので、ついどこかに結末を引き出す鍵のようなものはないのか、と考えてしまう。その中でにわかに浮上した「マグダラのマリア」というキーワード。


「ダヴィンチ・コード」を読んだことはおありだろうか。この映画化もされた小説の中心となるのが「マグダラのマリア伝説」。キリスト教 の聖杯伝説とともに、専門家や好事家に長い間研究され続けているテーマ。
男たちが作り上げたカトリック教会の歴史の中で邪魔者扱いされ、いつしか「娼婦」「罪の女」の汚名を着せられていたマグダラのマリア。だが実は彼女は王家の血を引く身分であり、キリストの一番弟子、また妻であった。(という説が「ダヴィンチ・コード」では使われている)


その「キリストとマグダラのマリア」のイメージが「プラトニック」の中に隠されている??調べてみると確かに面白いイメージの重複が見られる。


◆ 4話、風呂場で転んで足を切った青年を沙良が手当するシーン。
青年の薄暗い部屋、ベッドに座って椅子(背に十字架の彫り)に足を乗せる青年。そこに跪くように包帯を巻く沙良。これが、マグダラのマリアがキリストの足に自らの髪で香油を塗ったというイメージに重なる。
≪ググろう→  Feast in the House of Simon ≫ 


娘のためなら医師を誘惑することも厭わなかった沙良が、青年へ過去を告白するシーンに繋がってゆく大切なこのシーンが、マグダラのマリアが跪いてキリストの足に香油を塗り、自身の罪への赦しを乞い、慈悲を与えられるシーンとイメージが重なる(キリストの足元にいるのがマグダラのマリア)。沙良の背後に後光のように差すライトが、沙良が決して「娼婦」ではないという暗喩のようでもある。
ちなみに「キリスト」は古代ギリシャ語で「香油を注がれた者=救世主」を指す。青年が香水(アロマオイル)を作るのとイメージが似る。


◆ 6話、浜辺にある舟の傍ら、沙良が眠る青年を膝枕しているシーン。
このポーズが、磔刑となって死んだキリストを抱きかかえる聖母マリアの「ピエタ」の構図を思わせる。
≪ググろう→ Pietà ≫


キリストを胸に抱く女性は聖母マリアと言われるが、一説にはマグダラのマリアとも言われている。
傷付き疲れた青年を愛しそうに胸に抱く沙良。沙良が被っている毛布はマグダラのマリアの上衣のシンボル色である赤。


◆ そして、このシーンにはもうひとつ「舟」というキーワードが見て取れる。
古代ローマで舟の女神は、再生・お産の神でもあり、舟は女神の子宮の象徴。マグダラのマリアはキリストが死んだ時、彼の子供を妊娠していたという説があり、沙良もこの時既に妊娠しており、キリストが死の3日後に復活したように、青年もまた新たな命として再生する、というシンボルとも考えられる。
あの日二人は、浜辺で沈む夕日を送り、そして朝日を迎える。夕日の沈む西はキリスト教で「闇の国の始まるところ=死」のイメージを含む。そして朝日は、再生。
ドラマのタイトルバックに現れる赤いドットも、毎回少しずつ形を変え、新しい心臓=命のような形を取りつつあるのも何か意味有りげ。


その他にも細かい設定に共通のキーワードが現れる。
◆ キリスト昇天の後、マグダラのマリアは女の子を生み、その子の名は「サラ」だったと言われる。
◆ キリストは双子だったという説がある。
◆ 「NOと言わないゲーム」。青年は「イエス(キリスト)」としか言えない。(笑)


こんな風に、青年と沙良の周りには、キリストとマグダラのマリアのイメージが散りばめられている。それがこの後の結末に何か関係してくるのかどうか興味が湧く。


そして、もうひとつ。この「死と再生」のイメージを追う時、そこにぼんやりと浮かぶ人物がある・・・「大場誠」。剛さんが20年前に野島さんのドラマ「人間・失格」で演じたこの少年は、中学生の時イジメの果てに死んでしまう。
今回、野島さんはとあるインタビューで「プラトニック」のこの謎の青年には実は名前があった、と明かした。剛さんがそれを「懐かしい名前でした」と言い、磯チーフプロデューサーが「これまでに剛さんの演じたことのある役名プラス1文字」だと言う。そして、二人が婚姻届けを用意したところで、一瞬ちらりと見えた青年の判子が「大場」と読めた(判子の右端が少しだけ見えた)。


・・・もしかしたら野島さんは、20年前無念のうちに命を落とした少年をここにキリストのように「復活」させようとしているのではないだろうか。例えば、青年が「大場誠実(=オネスティー:”せいじつ”と書いて”まこと”と読む!)」という名前だったとする。彼が残した「新しい命」は父親から一文字もらって「誠」と名付けられる=誠少年の「復活」。とかとか。とか。


しかしこの仮説は、沙良が妊娠しているということを前提としたものだし、青年が回復するかもしれないという事実も発覚してしまった今、いろいろとマイナーチェンジを強いられてグダグダになりつつあることをお伝えしておこう。(汗)


野島さんはこんな妄想のナナメ上をゆく「衝撃の結末」を用意されたのでしょうが、わたくし&友人たちは、「ダヴィンチ・コード」など読み返しつつ、次の日曜日まで延々とこんな妄想を育てながら過ごしている、という、まあそういうお話です。
ああ、楽しい。