「美しき日」


あれから3度目の3月11日が巡ってきた。前回のFashion&MusicBookで、あの日を振り返りながら剛さんがこんなことを語っていた。


<「美しき日」という楽曲は、3月11日を体感して、今もなお体感している中で出て来た曲で、自分が天に昇った命に対して強く煌めいて生きていくという決意の歌。
震災だけではなく、僕の年齢になると沢山の大切な人が消えていくんです。もし命が消えた後に、そこに世界があるのならば、あるいは星になってしまうのなら、いずれにしても僕自身が生きているんだという、その輝きを見せていないと、向こうから見えないんじゃないかなあ、と。
だからとても悲しいけど、君がいないことはとても悲しいけど、でも今自分が生きてるってことはなんて美しいんだろう、そういう感情を歌った曲なんです>


「美しき日」は、剛さんの死生観そのものなのかもしれない。死んでしまったらそれで終わり、なのではなく、瞬く星に、吹く風に、散る花に、いつも「その人」を想い感じて共に生きていく。失うことは悲しいけれど、悲しみから逃げることをせず、むしろ悲しみをいつも傍らに置き、強く生きるための支えにしているかのようだ。


この「死んでお星さまになる」というのは、宮沢賢治の「よだかの星」からのイメージしかなかったのだが、古代エジプトでも死者は星に転生すると信じられていたのだそう。
<死ぬと天の北にある暗黒の部分へゆき、そこで死者は、北極星の周りを回る周極星とともに永遠の命を生きる>


それは多分、「そう教えられたから信じた」というより、「そう感じたから信じた」という感覚に近いものだったのだと思う。死者の気配を感じたり、偶然の出来事にメッセージを聴いたりという体験は、信仰や教育とは別の次元で起こり得るものであり、そう信じることが生きる力に繋がるのは、古代エジプトから現代の日本まで、いつの世も同じなんだろう。


「喪失感」「痛み」「悲しみ」、可視化できないものは同じ体験をした人とであってもうまくシェアできないことが多い。頑張ろうにもなす術なく、ただ深い淵の底に沈んでしまうことは誰にでもある。けれどいつか自分の足でその水底を蹴って浮上した時、見上げた空の星が自分を待っていたと思えたら、どんなに心強いことか。
「剛くんのペースで戻って来てください。いつまでも待っています」と苦しい日々に与えられた言葉を、今苦しい人へ繋いでいく。
思い出すことの大切さ。


<時間が経ったら忘れていくのではなく、経てば経つほどそこに立ち戻ること、あの時自分はこんな風に思ったなあということを大切にして音楽をつくっていきたい、生きていきたいと思う>


未来が過去でできているように、死もまた生の中に生きている。
あの日を経た私は、経なかった私より今強くあるだろうか。
あの日を経た未来は、経なかった未来より今美しいだろうか。
この日が巡って来るたびに、自分に問うてみたい。