Fashion&MusicBook 「瞬き」


昨夜のFashion&MusicBookから、「天魔さんがゆく」のエンディングテーマ、「瞬き」のこと。


< 丁度誕生日、4月9日〜10日に跨ぐあたり、人生ではじめて買ったアコースティックギターを引っ張り出していろいろつくっていた。年をひとつ重ねるってことは、家族もひとつ年を重ねるとか、いろんなことが過る日。感謝もあるけど、その先には物悲しさもあって。人間ていうのは当たり前だけど死んでゆくから、今まで生きて来れたということを意識すると同時に、ぼくもいつか死ぬんだなってことを意識せざるを得ない日でもある。そんな日にギターを持っていたくて、部屋で弾いていたら「瞬きするたび美しいものが消えていく」という歌詞とメロディーが一緒に出てきた。


今って、美しい景色を観たらすぐデジカメや携帯で写真を撮ったりして保存、「記録」する。「記憶」することをしないから、「このメモリーには何が入ってたっけ?」っていうくらいの、「記憶」ではなく「記録」。そしてデータを見て「それ」を思い出す。でも見ても何故撮ったのか思い出せないものもある。
shamanipponでも言ってるつもりだけど、別に最先端を批判するつもりはない。むしろ最先端は使った方がいいと思う。でもその「記憶できない」という、人間の儚さみたいなものを愛していたいと思い「瞬き」をつくった。


古臭い昔ながらのものと最先端のものを両手で抱きかかえて、自分なりにミックスして真ん中を生む。皆が「自分はこんな風に今を生きていたいなあ」、ということを見つけるきっかけになるように、shamanipponという思想というか考えというか音楽が、鳴っていけばいいなあと思う。 >


いつからだろう、やけに「思い出」という言葉が使われるようになったのは。少なくとも私が子供の頃は、夏休みの日記帳に何か特別な旅行とか行事があったことを書く時くらいしか、子供は「思い出」なんて言葉を使わなかった。
それが、最近は子供や若い子たちがむやみに「思い出になるから」「思い出をつくろう」なんて刹那的なことを言っている。思い出は後から思い出すから思い出であって、未来に向けてつくるもんじゃなかろうが!とかつい思ってしまう。きょうび誰もがそれほど明るい未来を想定できないのはわかる気もするけど、そんなら若者よ、まず選挙にゆけ。


これも豊かさの弊害か。私たちには、美しいもの、愛しいものをずっと記憶にとどめたい欲があって、今それを可能にしてくれる機械がある。いつ壊れるかわからない自前の海馬の代わりの外付け海馬としてのカメラやビデオ。忘れること、失うことに対するオブセッション。


ミヒャエル・エンデはこう言っている。 「忘れるのを恐れるな。忘れると、その記憶は無意識に沈み変容し人格を形成する。忘れて変容した記憶が多ければ多いほど人格が豊かになる。アイデアやファンタジーが浮かぶというのは、実は変容した記憶の浮上なのだ」。


エンデの言うことを信じれば、「忘れる」ということは「失う」ということではない。忘れた記憶の欠片こそが、塵のように積もり「私」をつくってくれるものなのだ。その儚さを恐れることはない。