3回目のあの日〜喪の仕事〜


手を差し伸べるよ たとえ触れられなくても
祈りを捧げるよ たとえ届かなくても
歌を歌っているよ たとえ聞こえなくても
            (2011年3月 剛マンブラザース@新堂本兄弟収録)


また巡って来てしまった。あれから丸2年。3回目の3月11日。
鮮やかに思い出されるあの日のこと。朝起きてニュースを読もうとPCを立ち上げて
・・・何が起きているのか、わからなかった。なにか理解を超えたことが起きていることしかわからなかった。
当時まだTwitterは始めていなかったし、とにかく何でもいいから情報を、とTVをつけると目に飛び込んで来たのは、大きな爆発音とともにもうもうと白煙を上げる福島原発、押し寄せる津波に呑み込まれる海辺の町。ニコ動がTV局と提携して24時間流していたニュースにかじりつく。時間の止まった町に夕闇が迫り、地震火災の炎がゆっくりと浮き上がってくる。長い夜が始まった。


「0311、知られざる闘い」という番組を観た。あの日、津波で大切な人や家を失った人たちのPTSDとの闘いのドキュメンタリーだ。
2年経った今もまだフラッシュバックや悪夢に苦しめられている人は多い。自分だけ助かってしまったことに対する罪悪感を抱え続ける人、周りに気を遣うあまり本当の感情を吐き出せない人、等々。彼らは、津波にさらわれた自宅があった場所を見に行ったり、起きた事を文章に書き起こしたり、あの日のことを繰り返し人に語ったりすることで、現実を受け入れ、ゆっくりと治癒に向かう。その手助けをしている心療内科の医師が言う。
「心の傷というものはそのままにすると膿んでくるんです。一度膿んでしまったら、一旦フタを開けて取り出してきれいにしないと、いつまでも心に重くのしかかるんです」


「喪の仕事」という言葉を思い出す。
喪失からの精神的な回復と再生には、いくつかの段階がある。「おくりびと」で紹介された納棺夫という仕事や葬儀や埋葬なども、ひとつひとつがその「永遠に失われた」ことを受け入れていくための小さな儀式なのだ。
だが、ああいう形での喪失は看取ることも叶わず、助けられなかった、長い期間遺体を見つけてあげられなかった、といった無力感や罪悪感で気持ちにピリオドが打てず、次の段階へ進めないまま苦しむ人が多いのだそうだ。


そんな時、私たち第三者にできることは限られる。かける言葉は「がんばれ」や「早く忘れなさい」ではない。むしろ言葉ではなく、「そばにいる」「手を握る」「話を聞く」など、「あなたは孤独ではない、私もまた同じ悲しみを感じているのだ」、と共鳴し傷ついた心に寄り添うことだ。剛さんのよく言う「痛みを共有する」とはそういうことだろう。


昨夜は、なにか心にさざ波が立つようで朝までよく眠れなかった。あの日を思い出すと心臓がぎゅっとなる。忘れたくたって忘れられるものじゃない。直接被災していなくとも、そんな小さなトラウマを抱える人は沢山いることだろうと思う。明けない夜はない。そう信じてはいても。
朝方降り出した雨はまだ止まない。



※ 追記しますと、わたくし実は現在ペットロスの真ん中で、まだ「夜明け前」で光が見えないところにいます。悲しみを分かちあってくれる夫の存在で救われているものの、やはりしんどいです。このドキュメンタリーも少々深いところに響きました。来年は少し客観的に「喪失」を受け止められるようになっていたいです。