ヒトノチカラ


一昨日のライブで、関西電力の計画停電のことが話題になったとか。
7月から始まる関西エリアの計画停電の大まかな日程が発表になったが、そこにShipでライブがある日も含まれているのだ。剛っさんは「もし停電になっても、できる限りのことをする。アンプラグドなライブなんていうのも悪くない」というようなことを言って笑っていたそうだけど、これは実際には頭の痛い問題だろう。


エアコンなしではShipの中は蒸し風呂になってしまう。かと言って外でということになるとスペース、照明、天気(雨)、騒音の問題などなど、直前にならないとわからない停電に備えて結構大掛かりな準備が必要になる。やっぱ暗闇じゃムリだから、蝋燭の灯りを使う灯篭だの提灯だのを使うとなれば、風情があるけど、多分消防法とかがうるさい。と、その時フと思い出した「あの事務所ってば発電車持ってたはず!」。が、よく考えたらやっぱり近隣の方々が不自由な思いをしている時にそれ使うのはちょっとマズイ。
ううむ、万が一の場合には、やっぱり暑さを我慢してShip内アンプラグド、かな。いや、私だったら「つよしもろとも汗だくなんて望むところよ」てなもんですが。


その日は丁度、大飯原発の再稼動反対デモのU-stream中継があった。前夜から正面玄関前に数百人のデモ隊が陣取り、再稼動中止を叫んでいたのだ。
欧州の各国のニュースでもその様子は放映されたが、実はこれは何度見ても考えさせられた。どうにも違和感があるのだ。何かが、違う。でもこの違和感は意外と根が深そうで、報道された記事などを読んでいても、このもやもやを解きほぐすための糸口がうまく見つからない。そこに流れてきたのが、引退を発表したばかりの元陸上選手、為末大さんのこのツィートだった。


< 自分のやり方を貫いてますという若いアスリートとよく話を聞くと、実はそれが本当に自分のやり方かどうか試した事がなかったりする。違いましたではなく違うに決まってるという考えで、意外なものを試さない。本当にこれが自分のやり方だろうかという疑いと、探りがない。
反対に何か憧れたものになろうとし続ける選手を洞察すると、自分は自分でしかないという発想と割り切りがなく、突拍子もない姿を目指したりする。自分から出発していないからちぐはぐな姿になっていて、そのずれを自分で気付いていない。
自分でいようとする事は変化を否定する事にもなりがちで、変化をしようとする事は自分でいられなくなりがち。だからちぐはぐしていないかという事と、固まりそうになっていないかというのを、いつも僕は観察している。その人なりにちょうどいいバランスがあるんだと思う。
多分僕らは自分が物心つく前の体験や、意識で把握できない事に大きく影響されていて、そのベースを無視して何かになろうとしてもそれは難しい。その根本を探ると自分に対しての肯定感の薄さから、だから自分ではないものになろうとする足掻きが見える。自分が嫌いだから憧れてる何かになろうとする。
自分であり続ける事、自分を壊し続ける事。矛盾するようなこれらの間を揺らぐ事が成長には大事だと思う。そして、内側にある自分のコンプレックスを知っておく事。消せないけれどそれはマネジメントできる。その視点がないと人は常に自分になるのを捨て、他人になろうとし続けてしまう。>


あの原発のデモで歌い太鼓を叩いて踊っていた人たちが思い浮かんだ。彼らは「自分らしい」やり方で反原発を表現していた、のかもしれない。でも、そこには何か現実と「ずれ」があったような気がした。
デモは数で圧倒する、人の力を集めてナンボの勝負。そしてその基本は相手に再考を促すことだと思う。「今一度話し合う必要がある」と思わせることだと思う。でも、彼らのやり方がUstを観た一体何人の人を実際にあの場所に向かわせただろう?政府や原発関係者に最後の話し合いを求めたようでもない。というのは、道路を閉鎖された牧野経済産業副大臣は船で海側から原発に入ったのだけど、わりと明白に思えたそのやり方を疑いそこを見張った人はいなかったようなのだ。


大人たちが+1、−1のことばかり話しているのと同じように、やはり彼らのやり方にも+や−がくっついていて、バランスを失っていたんじゃないか。人を信じていなければ人は動かせない。束ねた力を信じなければ現実は変えられない。「自分」は捨てたところに現実に即した作戦はあったように思う。もちろん、再稼動となったのは彼らの行動とは全く関係なくて、そこが一番の問題なのだけど。
(まだスッキリとはこの違和感がまとめられない。またいつか書くかも)