しゃま紀行 吉野山


そうなんだよな、私はこの曲を聴きたかったんだ。ここで。
♪きみがいま見つめるものを聞いて/ぼくが信じてあげよう/ぼくは信じてあげるよ/どんな星屑になろうと/魅せて/夜空輝くきみを/ぼくが見つけてあげるよ♪
「きみがいま」。剛っさんは「愛の歌はうたわない」なんて言っているけれど、こんな深い愛の歌もなかなかない。彼にとって愛と命は同義なんだろう。人が信じあい想いあうことの生み出す力を歌う時、シャウトというにはしなやかすぎるフェイクはまるで祈りのようだ。


吉野山に行った。
天川に連れて行ってくれた友人がまた車を出してくれたのだ。前夜は大雨だったが、幸い土砂崩れなどもなく、無事たどり着く。大きな駐車場に車を停めると、そこからもう吉野の山並みが一望できる。雨に洗われた深い緑の鮮やかな吉野杉の山のあちこちに白いくもの巣のような靄がかかる。幻想的で、まるで泉鏡花の世界に足を踏み入れたかのよう。シーズンオフの厚い雲に覆われた朝、観光客の姿はまばらで、しんと静まる参道に時折山鳥の声が響く。
「ココロ見」の第一回で剛っさんと対談した塩沼亮潤さんもかつて、一日四十八キロを歩く『大峯千日回峰行』をこの地で満行した。こんな深い山を昼夜走り続けたのか、そして今もきっと祈りを携えて走る行者がこのどこかにいるんだ、と思うとそのその山々が一層深く見えてくる。


その参道の先に堂々とそびえる金峯山寺。蔵王権現を本尊とする、金峰山修験道宗の本山だ。大きさに圧倒されながらお参りを済ませ、御朱印をいただき、反対側の参道へ出る。この先に私がかねて行きたいと思っていた吉野水分神社があったが、地図を見るとどうやら歩きだと1時間半ほどかかるらしい。それには夕方ライブに行かねばならない私たちには時間が足りない。少々ガッカリしながら歩いていると、そこに「どこいくのー」と、ニコニコと声をかけてくれたおばちゃん。「この近くやったら吉水神社があるよ」と教えてもらい、かつて南朝の皇居であったという書院を見学。金峯山寺が一望できるお庭が美しい。
そこで引き返し、少し早いけど帰ろうと思っていたところに、またさっきのおばちゃんが声をかけてきた。「あんたたち時間があれば一緒に金峯神社と水分神社へ行かへん?」。おばちゃんは毎日車でお参りに行くんだそうだ。「行かんと気持ち悪い」。どうやら私たちはそのお供にナンパされたらしい。わーい!行く行くーっ!!おばちゃん、ありがとーっ!


おばちゃんは通い慣れた細く曲がりくねった山道をモノともせず、軽自動車をまるでラリー車のようにカッとばす。吉野に嫁いで以来ずっと金峯山寺の門前に暮らすおばちゃんは、おしゃべりの中で何度も何度も「吉野は権現さまが守ってくれてるんや」と言う。「だから毎日お参りに行く。おばちゃんが元気なのも全部権現さまのおかげや」。
無事、金峯神社と水分神社に参った後、金峯山寺を真ん中に吉野の山々、遠くに金剛山、葛城山が見渡せるポイントに車を停めてくれ、「きれいやろ?」と自慢げに微笑む。ここに満開の桜が色を添えたら、その美しさはいかほどか。
昔から吉野の人々は桜の終わった後、その実を拾っては苗を育て、山に植えに行くのだそう。美しい吉野桜をその祈りの地に絶やすことなく咲かせるために。


そこでは「信じる」ということと「祈る」ということは同義語だった。そして「生きる」ということも。
どんなパワースポットと呼ばれるところであろうと、そこを守る人々に祈りがなければその力も濁ってしまう。吉野の山をゆく行者さんやそこに住む人々の祈りが山を掃き清めるように、剛っさんの祈りもオーディエンスの想いに呼応して、また一層その命を輝かせる。吉野山とShipには同じ「生きるための祈り」が日々捧げられているのだ。



追記:おばちゃんに尋いてみた。「おばちゃん、堂本剛くんて知ってる?」「知らんなあ」「じゃあ、キンキキッズって知ってる?」「ああ、そんなら知ってるなあ」。。おばちゃんっ。