物語の時代


Songs誌に初めてニューアルバムの宣材らしい写真が出た。
多分素材は厚手の絹素材の、和風な柄(というより紋?)を散らした、黒っぽく体にフィットしたジャケット。ボトムには、ふわっとした朱赤の同じような素材の布を巻いているようにも見えたけど、よく見るとこれは椅子?朱赤のカバーをかけた玉座(笑)の肘掛に腕を休めて座る姿にも見える。


今更ながら、彼のあまりにユニークな立ち位置をしみじみと思う。
そのアイドル然としたビジュアルの背後に、独自の世界観でもって新たな音楽をつくり上げているもうひとつの顔がある。そこには60年代の終わり〜80年代にかけての演劇やアートを取り入れたグラム・ロック(と、それに影響を受けた世代)のミュージシャンたちを髣髴とさせるものがある気がする。例えば自分でつくり上げた壮大な物語の中で主人公を演じたDavid Bowieと、SHAMANIPPONという「くに」の物語をつくり、国王(正式な呼称ではないけれど)を演じる堂本剛。そのアイドル、ロックスターという仮面の下にある、もうひとつの仮面という多重構造でパラドキシカルな偶像の物語には、どこか似たものを感じ、興味を引かれる。
彼らにとってアルバムというのは「舞台」なのだろうな。想像を掻き立てるビジュアルと音で構成される実験的な演劇のようなもの。それ自体は虚構であっても、その演出は彼らのメッセージを一番わかりやすく世に投げかけるための仕掛けに溢れている。


常々思うのは、よくコーイチくんの方が舞台志向と言われるけれど、基本的に彼らはふたりとも舞台をつくる人だと思う。スタイルが全く違うだけで、物語(コンセプト)をつくり上げてその「別世界」に観客を引き込む、という点では表現方法は違ってもやっていることは同じなのだ。


昨日読んだ記事によると、今はモノを売るのに「物語」がないといけないのだそうな。ブランドやデザインだけでなく、デザイナーが誰でどんな哲学を持っているかとか、どこでどんな風に作られたものかとか、その商品の背後にある「物語」を強調する。消費者も、単なる贅沢ではなく、高くても使い込むと味が出るものとか「長く使うことによって精神が宿るモノ」に興味が向いているそうな。
コレ、まんま古代神道的な考えで面白い。万物に魂が宿る。愛された物に命が宿る。なんだかんだ言って、現代人の心は無意識のうちに「戻る」ことを欲しているのかもしれない。


もう来週はトークショー!どんな話が出るのかな。小喜利とか今回のトークショーとか、剛っさん、昔の寺子屋みたいな場を多く持とうとしてるみたい。今度はこたつにみかんじゃないと思うけど、こうしてファンと直接向き合って話をすることに、新たな展開に向けて彼の踊る心が感じられるような気がする。