ブログ開始一周年


29日(こちらの時間ではあと1時間ほど)でこのブログを始めて1周年。
その半前ほど前に国境を越える引越しをしたストレスと、そのまた少し前にかかったウィルス性の胃炎で体調最悪の2010年を鬱々と過ごしていた時、Youtubeで初めてデビュー前の剛っさんの姿を観た。まだ17歳くらい、きりりと射るような目をした小僧、もとい、少年に私はアッサリとヤラレてしまったのだった。


なんだかあの日が随分昔のように感じる。その後の彼の生きた15年を動画サイトを駆使して早送りでイッキに観て、あーでもないこーでもないと妄想を巡らせ反芻してはここに紡ぎだして来たからか。
ブログ書きはほんとうに機を織るような作業だ。ここに書くからには他人が読んでも(少なくとも)自分が何が言いたいかわかるように書きたいのだけど、書かれる対象がアイドルという情報を極端にコントロールされた世界の住人だからこそすくすくと奔放に育つ妄想を言葉にするのはムズカシイ。その妄想を縦糸に、時々彼方面から漏れてくる「本音らしきもの」や「素の笑顔らしきもの」等々の断片を横糸に、せっせと織り上げる私にとっての「リアル」。横糸が強すぎても縦糸が強すぎてもそれはうまく織り上がらない。


今夜のF&MBにこんな言葉があった。
「適当に現実を無視したほうがいい。現実と現実を天秤にのせると、僕らの未来はない。だから現実と想像を天秤に乗せる」。
現実だけじゃ乗り切れないことがある。だから未来を想像する。現実と想像をうまく組み合わせて未来を受け止める「入れ物」をつくる。するとそこに未来がやってくる。希望の水が湧いてくる。
多分、これまで彼がやってきたことは全てこの「器」をつくることだ。どんな未来がやってきても、それを受け入れられる自分であるために。そして今回そこに「平安結祈」という映画がつくられ、多くの人にメッセージを伝えるチャンスが投げ込まれた。
現実だけでもダメ。想像だけでもダメ。生きていくためには、ほどよくどちらも必要なのだ。でないとリアルに大切なことが見えてこない。


奇しくも、今日再度「ジャニーズが仙台にパンダを贈る」という話がマスコミに取り上げられた。向こう5年間、数十億円かかる中国からのパンダのレンタル料、飼育費用などをジャニーズ事務所が全負担するというのだ。
この話、確かこの間もここに書いた気がするが、こんなアホらしい話もそうそうない。これが3.11以前で、全て事務所の経費で出すだけなら「なんとも奇特な話」と笑って済んだのだけど、今まだ復興はこれからという時期に、ファンがMarching-Jで寄付したお金が含まれるとなると話は全く変わってくる。
数十億円のお金があったらもっと他にできることがいくらでもある。パンダを見て子供が笑顔になれば云々と言うが、この話は「想像」に偏りすぎてはいないか?例えば震災で家や親を失った子供へはもっと現実的で直接的な支援が要る。パンダを見なくても子供が笑顔になれる環境を整えることが今まず考えられるべき現実だ。
この一件、政治的なかけ引きも背後に見え隠れして、どうもジャニーズファンの誠意は無視されている気がする。絶対に無視してはいけない現実を見て見ないフリをしているように見えるのだ。


パンダは、復興という今一番焦点を合わせなくてはいけない未来をつくり出すための「器」ではない。もうレンタルは決まったこと、と言うのなら、ファンからの寄付金だけは外すことを考えて欲しいと思う。今後もMarching-Jの活動は続けて行くということだったが、パンダにつぎ込まれるとなったら今後寄付を躊躇するファンも増えるのではなかろうか。そこをもう一度考えるところにジャニーズ(まずタレント、そして結果として事務所)の未来もあると私は思う。