「ノー・チューンド」から聴こえる音


新年早々悲しいニュース。KinKi Kidsの「ノー・チューンド」の作者長瀬弘樹さんが亡くなった。享年36歳。


私はにわかファンなので「Φ」も去年初めて聴いたのだけど、この「ノー・チューンド」はやけに心に引っかかる曲、というかものすごく懐かしい空気に包まれる印象深い曲だった。
閉まったシャッターの前に座り、友達ととりとめのない会話を交わしながら始発を待つ。夜明け間際の都会のしじま。遠くに清掃車の音がする。傍の植え込みでネズミがごそごそしている。カラスの声。眠らない街がうたたねをする短い時間帯、普段は喧騒の陰に隠れている若い焦り、迷い、いろんなものが急に浮かび上がってきて不安に押しつぶされそうになる。それを振り払うように自分につぶやいてみる。「手探りでもいい 生きて行けばいいんだ」。


私も同じ思いを同じ東京の片隅で味わった一地方出身者。友人たちとよくオールナイトの映画に行ったり、ライヴを見に行ったり、終電を逃し、閉店するBARからも追い出された後、東の空が白々と明けていく街を眺めながらいろんな話をした。眠けでぼんやりした頭でぼんやりとした未来のことを考えた。


残された彼のブログ「アト1ミリノソラ」を見ると、2007年の「ノー・チューンド」を作った頃のエントリーには、この曲が実話に基づいたものだというエピソードが語られている。そして、この曲が「現時点での僕の最高傑作だと思っている」ものであり、「この曲の中には、僕のなかの本当に大事にしている本当に大切な何かを託せたと思っている」ことも。
ブログはこう結ばれる。「この曲が普遍的に人々の心を動かすものなのかどうかは僕はわからない。あまりにも個人的な経験を歌ったものだからだ。でも、その僕の想いがたくさんの人を勇気付けたり、心を震わせるものであって欲しいと僕は願っている。」


90年代のはじめに「セント・ギガ」というデジタルラジオ局があった。潮の満ち干きと月の満ち欠けによる「タイド・テーブル」に沿った、世界各地で録音した自然音と、ナレーション、音楽だけで構成された「音」を流すステーション。
そこのスタッフの人と話をしたことがある。当時まだバブル崩壊の少し前だったからできた贅沢がたくさんあった。洞窟の中で水の雫の落ちる音や、波の音を録るためだけに録音スタッフは世界を駆け回っていた。初めてDATで録ったその音を聴かせてもらって、そのクリアーさに驚く。


そのスタッフの彼曰く、「同じ水音にも場所によって違いがある。それはその場所から生まれた歴史の音。リスナーにはそれを感じて欲しい」。


私の中では、この「ノー・チューンド」と剛っさんの「街」はセットになっている。
「街」には、白々と明ける空を眺めていても、また本当に陽はのぼるのかという、魂が不安にあえぐ姿、「ノー・チューンド」はそこから少し目線が上を向いた、出口を見つけに行こうとする姿、という違いはあるが、どちらからも同じ「音」が聴こえてくるから。同じシャッターの前でコンクリートの冷たさを感じながら、朝焼けを眺めながら、多分60年代や70年代の若者たちも聴いたであろう、あの音。
久しぶりに「ノー・チューンド」を聴いて、そこに流れる「音」に耳を澄ましてみる。鮮やかに蘇る孤独があり、痛みがあり、その向こうにあの街の持つ歴史のざわめきが聴こえる。


KinKiファンはあの曲をずっと愛し続けていくと思う。
長瀬さんのご冥福をお祈りします。