「不思議ちゃん」がゆく


こないだの「新堂本兄弟」、レギュラーの西川くんをゲストにリラックス感ハンパない回でした。たかみな以外野郎ばかり、ソコハカとなく漂う部室感。昔と比べるとKinKiのふたりが直接しゃべる機会が減ってしまったのがザンネンだけど、この少年のようなオッサンたちのたわむれる姿には癒される。


さて、今回のメインは「手相」。西川くん絶倫クソ野郎呼ばわり。きゃはは。
剛っさんにあったのは、”あやまりま線”と”不思議ちゃん線”。悪く言うと「ケンカしても謝らない自己中でつかみどころのない人」、でもよく言えば「正義感が強くて、ほんわか癒し系」なんだそう。そう、モノゴトには必ず一長一短がある。


でも西川くんも言ってたけど、すぐには謝らずに「自分の主張の正しさをキッチリ立証していく」というのは、「キーッ、アタシの言うことがとにかく正しいって言ったら正しいのよーッ」なんていう謝らない人より、ずっとフェアなんじゃないかなー。頭から相手を排除するんじゃなく、私の言い分をまず筋道立てて話しますから聞いてください、その上でもう一度考えましょうよ、というかなり民主主義的なアプローチのように思える。
と肩を持つのは、私も立派な”あやまりま線”持ち、しかも彼と同じ「説得型」のアプローチを試みる者だから。夫婦ゲンカになったら、まずそのお互いの絡み合った言い分をひとつひとつ丁寧に拾い解きほぐし分析し、ほらね、私も悪いがあなたも悪い。さあ、一緒に反省してさっさと水に流しましょう。と説得をする。ケンカなんて大抵両方に問題があるもの。そこをクリアにしないで謝ったって、何の解決にもならないのであーる。


もっとも、剛っさんはこんなヤヤコシイことはしてなさそうだ。わからんもんはしゃあないもんなあ、でもぼくはこうしたいねん、と放置ベースの「諦念型」っぽい気がする。
ちなみに私と西川くんは同じ乙女座A型。謝らない型にもそこらへんは影響するのだろーか。


そして”不思議ちゃん”。コレ、「ぽわぁんとしてて意味不明なことを言う女子」の代名詞のようになってるけど、褒め言葉のようでありながら、ソコハカとなく疎外感漂うなんとなく引っかかる言葉だ。要は「既製品の言葉」を使わない人、独創性のある人ってことじゃないのかなあと思うのだけど、今ってそういう人を「不思議」とか「天然」とか呼んで、ダイレクトには褒めない時代なのだ。「へん」と切り捨てずに「不思議」と呼んで珍重するところに、人と違うってことは「いいことだけど難儀」なことだと皆思ってるところが垣間見える。「出る杭は打たれる」と同じ意味で、人と違った特性を持つ人や、信念を持って人と違うことをやる人が生きにくい時代ってなんだろー。


でも、そうやって「不思議」と言われる方は自分が不思議だなんて思っていないもの。だから、自分が不思議と呼ばれることを「なんで!?」と考えたり、視点を変えて客観的に自分や世の中を観察してみたりする試行錯誤が、またユニークな感性のコヤシとなる。


と、ここに橋本治という”不思議ちゃん”のパイオニアみたいな作家がいるのだけど、彼の著書『「わからない」という方法』にこんな一節がある。


<「信念」はソバに似ていて、やせた地との相性がいい。「信念」は往々にして「逆境」から生まれるものだが、「逆境」とはまた、「自分の特性を手放さずにいるだけで”へん”呼ばわりされてしまうこと」である。「自分の特性」を手放さないままでいると、その状態はそのまま「信念」を育成してくれる「逆境」になる。その「逆境」の中で、「自分の特性」とは、身体といたって相性のよいものになる。相性のいい身体性を抱えて、「信念」はスクスクと頑丈に育つ。育った「信念」こそが、「硬直して古くなってしまった常識」をひっくり返すテコとなる>


このご時世、信念を持つことほど生き難いことはない。たとえ、それが道なき道であろうとも、「好き」が自分の特性=個性だとしたら、「好き」を貫くことが信念を貫くこと。逆境を越えて成長し、世の中の移ろう常識や価値観を変えていくのはいつも「不思議」で「へん」な人なのだ。