愛&Love


先日のラジオで剛っさんが、「縁を結いて」の大サビに出てくる「Love」という言葉について話していた。
「ここで”愛”っていう言葉を入れても良かったんですけど、今の日本人に対して、この様々を伝える為に、適切な言の葉っていうのがあると思うんですよ。ここはあえて、”Love”という、英語とされるものを使ってみました」。


なんとなくわかる、と思った。
普段外国語を使う生活をしていると、時々不安になる。一体彼らには本当に私の伝えたい言葉の意味が伝わっているのだろーか、と。日本語を直訳したのでは伝わらない言葉もあるし、外国語の言い回しだと日本人にはピンとこないものも多い。せめて誤解を与えないよう身振り手振り、百面相で、足りないニュアンスを必死に伝える。


剛っさんは言葉をとても大切に扱っているからこそ、あえて「愛」じゃなかったんだと思う。日本語の「愛」はイメージ的にイコール「恋愛」に繋がりやすい。だが、男女間のパッションだけではなく、人類を、縁あって出逢った人たちを大切に慈しむことが、彼の意図するところの「愛」=「Love」なのだ。


昔アメリカ人と付き合ったことのある友人が言った。
「付き合い始めてしばらくした頃、彼に軽く”大好き”と言おうとして”I love you”と言ったら、向こうが一瞬沈黙の後、喜ぶと言うより感激しちゃって。ああ、”Love”って日本人が思うより深い言葉なんだなあと思った」。
だからこそ長く連れ添った老夫婦なんかも、照れなどなく事あるごとに「I love you」と言葉を贈りあう。それが日本では男女間の色恋ザタに限定されることが多く、だから今もニッポン男児は「そんなことこっぱずかしくて言えねえ」と言う。元々意味するところが違うのだ。


「愛」という日本語の歴史は意外なほど浅く、明治半ばに外国語から「翻訳」された。それまでの日本にも、「色、恋、情」という言葉はあったが、キリスト教=一神教の教えからもたらされたものである「Love」、それを一言で言い表す日本語は当時存在しなかったのだ。それに当時の結婚は全て親同士が決めることであり、自由な「恋愛」という概念すら現代のような形では存在しなかったこともあり、「愛」という新しい言葉が一般に認識されたのは明治後期〜大正時代と言われている。
その文化的な違いと歴史の浅さが、日本人がまだ「愛」という言葉をどこかしっくりこない言葉と感じて、使うことを照れたり躊躇したりする理由なんだろう。


剛っさんがファンに向けて「愛してます」と言霊を飛ばすのは、いつも「I love you」ってことね。深く広い慈愛の心。理屈ではなく、「Love」の言霊を鋭く感じとれる剛っさんの手に、あの日天河の空からその言葉が降りてきたのは何も不思議なことではないのだ。