「戻ることが未来」


昨日の「Fashion & Music Book」、新曲「Nijiの詩」に込めた想いをいろいろと語ってくれてました。


その中で、「Technologia−意思−」という初回A盤に入る曲について語った部分に興味を引かれた。彼曰く、
<ぼくたちの”意思”がテクノロジーだと思う。想像したものを形にできる人間の意思っていうのは最先端のテクノロジーだ>
<「戻ることが未来」というテーマをこの曲に込めた。これが自分が創ったSHAMANIPPONという国で一番言いたかったこと。「縁を結いて」という楽曲のジャケットを和装にしたのもそこです。昔の人がこう生きてたよね、っていうのをわかりやすく見せるために。昔、歌は神様に捧げたものなんだ、とか、歌の原点、今ぼくのやっていることの原点、日本人の原点、そういうものを表現したくて>


Technologiaというのはギリシャ語だそうだが、Technologyと英語にしなかったのは、「テクノロジア」という響きが「テクノロジー」に加えて「ノスタルジア(懐かしさ)」という言葉を連想させるからではないか。
オーウェルの「1984」もキューブリックの「2001年宇宙の旅」も今は「懐かしい未来」になった。そしてディックの「ブレード・ランナー」の世界ももうすぐその仲間入りをする。
私たちは科学が輝かしい未来だった頃から、ひたすら前進することだけを考えてきた。その結果何か誤解をしてしまったような気がする。彼も言うとおり、テクノロジーは進化しても、それは人類自体が進化したということではない。今原発ということだけを取ってみても、人類は自分たちの作り上げた「幸せになるための道具」を未だに使いこなせていない。
60年代以降のSF映画には人類がテクノロジーに使役されるデストピアを描いたものが多い。スラム、酸性雨、監視塔、クローンetc.自然を破壊し、神の領域へも踏み込む人類は、いつしか自らのつくったテクノロジーに翻弄されていく。
その予感や不安はを感じる者はいつの時代にもいたはずなのに、どこで人類は「もう戻れな」くなってしまったのか。そろそろあの頃描いた「未来」とは決別しなくては。未来とは私たちの意思の先にあるものだ。未来は変えられる。そう皆が感じ始めている。


「Nijiの詩」は「水」がテーマなのでCDジャケットは「水」。そしてもうひとつは群集が右に歩いて行くが、彼ひとりが左に歩いて行く、というイメージのものになるのだそう。
<「戻ることが未来」だから、皆はそっちに歩くかもしれないけど、ぼくはこっちに歩いて行きます、というメッセージを込めた>
<今本当にこの日本の中で生きながら、世界で生きながら傷を負ってる人がほとんど。自分にしか見えない、他人には絶対見えない傷を持ってたりもすると思うけど、その傷を愛することが自分を愛することにも繋がるし、自分を信じるってことにも繋がって、そして人の力、人間の力っていうものがみなぎっていく。その力は自分を救うことはもちろん、沢山の人、日本だって世界だって救うことさえできる >


人の力を信じ、戻ることを恐れない。ますます堂本剛の世界観は確信を増していく。