水瓶座の時代


占星術的に言うと、今世紀に入って水瓶座の時代が始まったらしい。
60年代に来るその時代を寿ぐ♪あくえーりあーーす、あくえーりーあーーす♪なんて歌があったけど、この水瓶座の時代というのは「宗教上の教えに従い救いを求めるのではなく、個人の霊性を高めてよりよい社会を創っていく時代」なのだそうだ。


英国での大規模な暴動のニュース映像を観、パンク世代のわたくしは「おっ、London Callingじゃあん♪」と不謹慎にも一瞬わくっとしてしまったが、ちゃんと報道を聴いていると、どうも今回は70〜80年代にあった反政府や反人種差別デモに端を発するものとは違うようだ。


コトの発端は、英国籍の黒人男性を警官が射殺した事件。申し訳ないがよくある、と言っても過言でないこのテの事件が、これほど大きな暴動になったことに、マスコミは決まり文句の「貧富の差」「人種差別」などを挙げる一方で、今回は「それは遠因であっても、直接のアクションには政治的なポリシーや主張はない」と言う意見がそこに暮らす若い層から多く出ている。
1600人とも言われる逮捕者には多くの一般人=特に貧しくもない層や英国人(白人)も多く含まれ、どうも暴動参加者の多くは、単に騒ぎを利用して「ゲーム」に参加しちゃえーくらいの感覚の若者だったらしいのだ。実際、貧困者の職場の破壊、貧困者からの略奪、被差別者への暴力行為に「大義」が存在するわけもない。


ヨーロッパでは不況の波を受けて、ここ10年くらい5月1日のメーデーにはデモ隊と警察の間に衝突が起き、ショーウィンドウが割られたりする暴動はどこの国でも年々大きくなってきている。しかし、それはあくまでも反グローバリゼーションへのアクション(もちろん、間接的にフラストレーションのはけ口でもあるのだろうが)であり、狙われるのはマクドナルドとか多国籍企業がほとんど。高い若年層の失業率に移民問題なども絡み、問題は単純ではないが、少なくともそこには闘うべき「敵」が存在した。
でも今回のように特に敵を持たない一般人まで巻き込んだ大規模な暴動が英国で起きたことにはどんな意味があるんだろうか。ツレアイとTVを観ながら話し込む。


彼はラテン国の人だが、「同じような暴動があなたの国でも起きると思う?」との問いに、彼は「ありえない」と言う。何故なら、欧州のカトリック国に於いて家族というシステムにはまだ強固なものがあり、子供は結婚するまで基本的に親と同居し、結婚を機に家を買い「自立」するまで、小金を持っている今の親の庇護の下、ぬくぬくと暮らしている。たとえ失業率が高かろうが、国の福祉システムが役に立たなかろうが、暴動なんて起こす必要はないし、そんなゲームに参加するようなガッツ(?)のある一般キッズはいないのだそうだ。
それに対して英国は「ゆりかごから墓場まで」、至れり尽くせりで有名な福祉国家だ。その上(それゆえ?)20代でローンを組んで家を買い「自立」する慣習もあるなど、子は早いうちに親の庇護の下から離れる。もし失業しても国家が生きて行けるだけのお金を一生保証してくれるから、親との関係は自ずと希薄になる。
家族間のヘルプと国家によるヘルプ、同じ救いの手ながら、そこには何か大きな違いがあるように思える。


こちらで暮らしてみて思うのは、「自立」をよしとする国での親子の断絶が大きいこと。日本もその例外ではないが、経済的に大きな問題のない国や福祉的に子供が経済的な「自立」をできる国ほど、「親とは価値観が合わないから絶縁中」とか言う人が多い。
そこにはピューリタン的厳しさや、ベタベタしない個人主義社会の家族のあり方もあるが、手厚い福祉というものが一歩間違うと親による子への教育義務の放棄や、家族の絆の崩壊にも繋がりやすいのも確かな気がする。(もちろんカトリック社会にも問題はアリアリだけど、またそれは別の機会に)


その共同体が宗教という核を失いつつある社会では、若者にとっての「自立」が単に親の干渉(=教育・指導)からの解放だけを意味し、結果的にあらゆる共同体からの精神的な「孤立」そして荒廃を生み出すことにもなっていないか、と思ってみたりもする。
実際、きょうびの英国の十代のギャングたちは普段つるんで遊んだりしないのだそうな。今回もSNSなどネット上で仲間を募り暴動に参加したりしたようだが、それはその場限りのバラバラな、精神的な繋がりなど全くない「個」の集まりであり、暴動はいわばネットゲームの延長。彼らの肥大したエゴはもうどこにも繋がらない。


人と人が繋がることの大切さ、何かを共有することの大切さ、どんな宗教もその共同体の結束を強くして暮らし易い共同体を作るための大切なルールを与えてきた。それは一人一人のエゴが大きくなるにしたがって窮屈なものになり、脱ぎ捨てる人が多くなった。しかし、あまりに自由すぎるのもかえって暮らしにくいものだと皆が気が付き始めた今、「で、どうする?」というのが今私たちひとりひとりに与えられたテーマだ。


2001年に到来した水瓶座の時代、本格的にその時代に入っていくのは2016年頃。それまでに今のこの状況から聞こえてくる「大切なメッセージ」に気づけるかどうかに、この「普遍と自由の拡大の時代」を謳歌できるかどうかがかかっているそうだ。
今、世の中は満遍なく過渡期のカオスの中にある。