「月−ツク」


ニューシングル「Nijiの詩」。剛っさんが少し前のFashion &Music Bookで何故その表記にしたかという話をしていた。


< 英語とひらがなと漢字が混ざっているというところですけども、何かそういう言葉ってものに対してすごく、何かピントを合わせがちな最近だったりもしたんで。
僕たちの文明、僕たちの文化、僕たちの心、そういうものが今どんな状況にあるか考えたいね、っていうのも、何かこう裏テーマとしてあって。 >


私たちが心を休めるお寺も、いつも使っている漢字も大陸から伝えられた文化が日本に根付いたものであり、じゃあ一体「日本らしさ」ってなんだろう・・。
彼の好きな「言葉遊び」はその疑問に端を発しているらしい。


そのニューシングルの初回A盤に収録されるインスト曲、「月―ツク」。
ここにもイマジネーションと遊ぶ「掛詞(かけことば)」という遊びがある。
「月」+「ツク」というところから、私がまず連想したのは「Lunatic 月憑き」。その霊力は人の気を狂わせると言われる「憑依する月」のイメージ。
そして「ツキ」+「つく」=ラッキー。「月」+「搗く」で、ウサギがお月様で餅を搗く、のイメージ。その他にも「月」を「げつ」と読んで、月曜日の憂鬱さを思う人もいるだろうし、「月9」なんていう跳躍もアリ。
「ツク」という「音(おん)」の漢字は着く就く突く衝く点く尽く撞く漬く・・、と数多く、ひとりひとりがそこから連想し、広げるイメージは無尽蔵だ。


万葉の昔から、大和人は歌に掛詞を好んで用いた。
例えば、「とふ」という言葉(音)に「弔ふ」「問ふ」「訪ふ」の意味を掛けたり、「あく」を「空く(むなしい)」「明く」「飽く」、「ふる」を「降る」「振る」「経る」など、和歌の限られた文字数の中に、いくつもこうした掛詞や縁語(別の言葉を連想させる言葉)を織り込んで、より多くの情報や心情を表現したのだ。


言霊は文字にではなくその「音」に宿る。
「ツク」という「音」も、その響きに集まる全ての言霊を幾重にもまとい、私たちを無限の、そして夢幻のイメージの海へ解き放つ。


剛っさんのする言葉遊びは、掛詞のように、ひとつの言葉やひとつの言霊に縛られないで、広く想像力を解き放てというメッセージなんじゃないかと思う。アルファベットであろうが、漢字であろうが、「虹」であろうが、「二時」であろうが、受け取るそれぞれがそれぞれに自分にとって一番しっくりくる「Niji」を自由に思い描けばいい。
「自分らしさ」、今それが大切なんだ。


私は彼のインスト曲が好きだ。
言葉の要らない世界で、声域や文字数のことなど考えず、ただ彼はイマジネーションのおもむくまま、深く潜り高く翔び、時空を超えて魂を遊ばせることができる。そこから生まれた音に浸るのは、彼の放つα波に包まれるようで、なんとも心地がよい。