風鈴と復興


梅雨も明けないと言うのに暑い日が続く。
ワイドショーやニュースでは「節電対策」が毎日のように特集されているが、35℃だ40℃だということになると裸になっても暑いもんは暑いのである。あとは知恵をしぼるのみ。
ってことで、甚平、浴衣を着、朝顔やゴーヤの緑の木陰でかき氷なぞ食べ、風鈴や金魚鉢をインテリアにして目や耳を涼ませ、怪談で鳥肌立てながら、ゴザを敷きそばがら枕でやすむ。初夏の気配に怯えつつも、どこか皆試行錯誤のタイムトリップを愉しんでいる。


実際、この日本文化における五感を使って「涼」を感じる、ってのは全くもって偉大なアイディアなのだ。以前、ハンガリー人にうちにあった風鈴を「あれはなんだ」と尋ねられ、「日本では暑い日はこの音を聴いて精神的体感温度を下げるのである」とかいい加減なことを言ったら、「そんなこと考える民族はあんたたちくらいだ」と半ば呆れつつ感心されたことがある。


なんだかんだ言って、日本人ってとても想像力豊かな民族だと思う。特にこうして五感を使って時に厳しい自然と共存する術を、長い年月をかけて独特の美学に昇華させた繊細な感性は、私たちが今一番思い出さねばならないことだろう。


梨木香歩という作家の「家守綺談」という本を思い出す。
舞台は100年ほど前の日本。駆け出しの作家である主人公が、亡くなった親友の実家の家守になって暮らすことになるのだが、その家では不思議なことが次々とおきる。庭のサルスベリの木に惚れられたり、散り際の桜が暇乞いに来たり、白木蓮がタツノオトシゴを孕んだり、飼い犬は河童と懇意になるし、池には人魚が泳いでいるし、死んだはずの親友が掛け軸から出てきたりもする。そこでは森羅万象の「気」と人間が当たり前に共存しているのだ。そのひとつひとつに驚きつつも淡々と受け止めていく呑気な主人公に思わず笑ってしまいつつ、ああ、この時代はまだ「そういうもの」が見えた=存在することを許された時代だったのだな、と思う。


「そんなものは存在しない」と思いこんでいるから見えない、感じられない、恐れる。理解などいらない。ただ受け入れればいいのだ。でもそのやり方を私たちはいつしか忘れてしまった。
主人公は言う、「文明の進歩は瞬時、と見まごうほど迅速に起きるが、実際我々の
精神は深いところで、それに付いていっておらぬのではないか」
あるがままの世界を受け入れることの難しさ。見えるものと見えないものの共存の難しさ。そして、失くしてしまったものをとり戻すことの難しさ。


だがそれは本当か?「難しさ」ばかりを人は言うが、それはそんなに難しいことなんだろうか。私たちは自身の思い出す力や自然治癒力を侮ってはいないか?
日本人には、風鈴の音に涼風を感じる力が今もある。それを改めて想い信じることが、古代の感性を復興させることに繋がるのではないか。


うちには樹齢百年を超える金木犀の木がある。そんな古木となれば剛っさんみたいなキュートな精霊のひとつも宿ってるんじゃないかと思い、元気だね綺麗だねとたまに声をかけてみたりする。
この夏は彼にも風鈴を吊るしてあげようか。