桜の妖精@BARFOUT!


BARFOUT ! が届く。田舎の本屋では売ってないんでね。ぐっすん。


SHAMANIPPON vol.190
「僕は桜の季節に生まれた」。そうです、僕は桜の妖精です。桜を髪に挿したドヤ顔のこんなにキマる男がオレの他にどこにいる。
そんな声が聴こえてきそうな、桜の季節のメモリアル・ショット。


我が背子が 挿頭(かざし)の萩におく露を さやかに見よと 月は照るらし
(夫の髪に挿した萩の花の、その露まではっきり見なさいと、月が照っている)
という歌が万葉集にもあるように、古代では男性も花を髪に飾ったのだそうな。
それは単なる飾りではなく、祈りの意味もあったと言われる。


桜の花は、春になって山から里に降りてくる御田植の神が宿る花。そろそろ田植えの季節だよ、というのを知らせてくれて、落花が早いとその年は凶作と言われた。
私たちは(特に剛ファンは)桜といえはソメイヨシノを連想するが、ソメイヨシノは江戸時代に品種改良されて生まれたもので、エドヒガンザクラとオオシマザクラの交配種。実はならないので、実質接ぎ木でしか育たない。
そんなソメイヨシノがこれほど日本人に愛されるのは、その妖艶な姿においてかもしれない。


ソメイヨシノは狂い咲く、という言い方がよく似合う。葉をつけるヒマもなく生き急ぐように一気に咲いたかと思うと、一夜の春の嵐に狂おしくもはかなく散っていく。
夜桜の闇に浮かぶ白い姿は妖しく人を呼び、乱れ散る花の下、杯を交わしながら、私たちの魂はあちらの世界とこちらの世界の境界をさまよい、濃く匂うエロスとタナトスに酔う。
その花の死の香り、生への欲望が、死を想ったことがあるからこそ今を生きることに貪欲な堂本剛という人間が桜にこれほど惹かれる理由でもあるのだろう。
でもそれは彼だけでなく、桜の精によって日本人の既にDNAに刷り込まれた感情なのではないかと思ったことがある。


東京のソメイヨシノの開花標準木は靖国神社にあり、戦後に植樹されたそれらの
中には特攻隊の生き残った隊員たちによって植えられたものも多いらしい。
この特攻隊の人たちのことを歌った「同期の桜」という歌がある。


   貴様と俺とは同期の桜  同じ兵学校の庭に咲く 
   咲いた花なら散るのは覚悟  見事散りましょ  国のため


という一番はもしかするとどこかで聴いたことがある人もいるんじゃないかと思う。
五番まであるその歌の最後はこんなふうに結ばれる。


   貴様と俺とは同期の桜  離れ離れに散ろうとも
   花の都の靖国神社  春の梢(こずえ)に  咲いて会おう


その昔私が20歳の頃、偶然この五番の歌詞を知り、そのニッポンの「なにか」に涙してしまった。「桜は神の依り代」なんてことを知るよしもなかったコムスメは、一体何に泣かされたのか。それはちょうど桜という花と死のイメージによって、DNAの中の何かかが呼び覚まされた、という感覚なのではなかったか・・・?
桜というのは日本人にとってそんな花なのだ、多分。


私は民族主義寄りではあっても、この国でいうところの「右翼」ではないので、念のため。(笑)