四季と脳味噌


じめじめした梅雨も、久しぶりだと風情があっていいです。肌も潤うし。
そんなわけで、あちこち花を観に行ってます。あじさい、花菖蒲、ききょう、などなど。きょうびはヒマとカネがあるリタイア層を狙っていろんな「季節のお庭」を楽しむ場所が思いのほかたくさんあるのですねえ。
昔は興味無かったんで行ったことなかった「あじさい寺」だの「ききょう寺」だの、静かな山寺で遠くにウグイスの声など聴きながら、お茶飲んだり、おそば食べたり、だんご食べたり、わらびもち食べたり、って食べてばっかだっつの。いやはやその楽しいこと。


しかし、この季節の花の青、藍、紫の雨に濡れた緑に映えるその姿は、私たちの原風景の中に間違いなく刷り込まれていて、情緒に訴えてくる色だなあとしみじみ思う。
奈良、もう少し近ければこないだ行けなかった長谷寺にあじさいを観に行きたいものだわ。私は雨が好きなので、この季節の奈良の山寺めぐりなどに出かけてみたい。今日NHKの番組で奈良ホテルを紹介してましたね。やっぱりいいなあ、次回は是非泊まりたい。


なーんて、居間のソファでTV観ながら図書館で借りた本を読んだりしていると脳味噌がどんどんインプット専用になっていって、アウトプットができなくなっていく。自分では意識していなくても、耳や目だけでなく五感全部が入ってくる情報をしっかと全て受け止めているというか、普段異文化の中で言葉の問題などもあり自動的にスルーしているものを、海馬がさくさくと蓄積していってオーバーフロー状態になってるっていうか。


よく「日本人は虫の声を左脳で聴き、西洋人は右脳で聴く」という。要は日本人に
とって虫の声は言語脳で受け止めるが、西洋人は単なるノイズとして受け止める
ということらしい。
多分私はむこうの言葉をほとんど右脳で受け止めてるんだろうな。だから日本語脳に切り替わってる時は、それをノイズとして処理できる。が、日本にいると入ってくるノイズにすら記憶中枢なんかが働いて意味を持たせたりするので、休むヒマがないんじゃないだろーか。普段ヒマしてる部分が急にフル回転しないといけなくなって、キャパ超え→フリーズ、てなことになってるんじゃないかと思うのだ。


今読んでる脳味噌の本によると、こうやってひとつの「音」が次々と別のイメージを喚起したり、別のキーワードに繋がったりするのは脳のシナプシスが手を繋いでいるということでよいことなのだそうな。情報をどんどん出し入れして海馬=記憶中枢を鍛える連想ゲームは脳のエクササイズに絶好。
ま、そこんとこが私が実はブログなんて始めたきっかけでもあるのですね。自分に何かテーマを与え、しばらくアウトプットのなかった古い情報を活用したり更新したり、キーワードだけバラバラに蓄えてあったものをきちんと長い文章に紡ぎ、編み、できれば人に伝わるよう構成する。ボケ防止かっ。と言われれば「はいそーです」なんだけど、こうして自分にプレッシャー与えないと使わない脳の部分が増える=生活の完全ルーティーン化、というのが老化というものではないかと思うんで、ちょっと変化を与えてみよっかな、と。人に伝えるとなるとモノを見る角度とか変わりますしね。
そういう意味では若くても脳の老化の激しい人もいるということですので、気をつけませう。んふ。


しかし、いつも思うのは日本の虫の音っていろんなバリエーションがあっていいな。
この季節だとそれほど鳴く虫はないけれど、秋の虫のリーンリーン、ガチャガチャ、スーイッチョン、コロコロなんてものだけでなく、蝉だってミーンミーン、シャーシャー、ツクツクボーシ、とかね。フシがあるから歌うようにも言葉のようにも聴こえる。
ヨーロッパは北の方に行くに従って鳴く虫がいなくなるし、南欧でも蝉はジーとしか鳴かない。秋の虫も日本みたいなバリエーション全然ないし。あのくらいじゃ日本人の左脳とて反応のしようがない。
日本の豊かな四季は色や音のバリエーションを豊かにさせる。五感を研ぎ澄ましてそれらを受け止め、愛でることの贅沢さ。それが同時に脳の活性化にも繋がるんだろうな。と今日も庭仕事などして思う。