平城宮跡にて


今回は奈良行きなんかもあって、結構早く時差ボケがとれた。やっぱ人間必要となれば老体もそれなりに反応するものなのか。
でもまだ頭はなんかぼよんとしている。ま、もともとぼーっとしてるんだけど、集中力が普段に増して、ない。いつもはひとりで家にいるのに対し、実家はなんだかいつも誰かいて、落ち着かない。すでに自分の部屋はないので基本居間に住まっているという過酷な状況もあり、ブログ更新を含めて生活のリズムがなかなかとれましぇん。というわけで、今日からは毎日図書館に通うことにいたしました。と、今度は読みたい本に囲まれて書けないかも。


さて、奈良。
主に「縁を結いて」のPV絡みの神社仏閣中心に周ったんですが、個人的には岡寺がよかった。その日は桜井の駅からレンタサイクル借りて岡寺から石舞台、橘寺、飛鳥寺を周って飛鳥駅へ、というルートを取った。が、これがけっこー死のロードで。岡寺が思ったより遠かった+延々とゆるい上り坂みたいなルート。剛っさんのためならエ〜ンヤコラ♪と心の中で絶唱しながらこぐ自転車の進まないことって。
そんな苦労をしてたどりついた地だったから、余計に静かで美しい佇まいの岡寺にホッ。高台からの眺望もよかったし。ただ、ここで持ってきたカメラのバッテリーが切れ、この日は以後写真が取れないという憂き目に遭うが、「奈良がまた来い、って言ってるのねっ」と意地でもポジティヴに立ち直る私を如意輪観音さまが優しく見守ってくれていた。気がする。


他にもいいお寺がたくさんあったけど、いかんせんこの時期は遠足だの修学旅行だの、どこに行ってもコドモの群れが。あとで思うと印象のよかったところ=コドモがいなくて静かに観光できたところ、という気がする。その昔、私もあのひとりだったわけで、あんまり文句は言えませんがね。


最終日、一番最後に出かけたのが平城宮跡。ツレはいつも鬼のように土産物を買う人なので、この日は別行動。ひとりでぶらぶら海龍王寺から平城宮跡へ。
青空に日本列島型の雲など浮かんでいて欲しかったけど、この日はあいにくの曇天。今にも泣き出しそうな空の下、剛っさんがお習字をしたあの場所にひとり(周りには本当に誰もいなかった)座って、古の都に想いを馳せてみる。
びゅうびゅうと横殴りの風、空にはヒバリ(多分)、遠くに近鉄のゆく音。時々細かい雨がパラつく。いいな、ああいう自由に使える遺跡があるのって。ただの原っぱじゃない、歴史に包まれるあの贅沢な感覚。
あそこに行って、今回奈良で聴いた「時空」の、あの曲のよさが改めてわかった気がする。


それと同時に、剛っさんのインストメーカーとしての才能も改めて感じた。
こういう言い方をするのは語弊があるかもしれないが、堂本剛という人は、これまでどちらかというと言霊系=言葉にこだわる人、というイメージだったが、実は言葉を使わないインスト曲の方がより饒舌にクリアにその世界を表現できる人なのではないか、と感じたのだ。
言葉にこだわりがあるからこそ、声域というものがある歌い手だからこそ、その制約から意識を解放した時、彼はより高く深く遠くその意識を遊ばせることができるのでは、という気がする。


ライブの中のフリーセッションや、コーイチくんとの「ふたりどヤ!」の時も感じる、掛け合いの妙、というか、彼は実は「受け」の人なのだと思う。誰かの放ったボールを、その勘のよさと反射神経で受け、絶妙なコースに投げ返す。考えすぎる彼に考える間を与えない無意識のコミュニケーションが、彼という人の本質を実は一番うまく引き出せるのではないかと思う。
ソロアーティストとは言え、自分で何でもやってみるのが好きとは言え、ひとりだとつい考え過ぎてしまってる曲やヒネりすぎの曲(主にアレンジ)もかなりある気がするのよね。信頼のできるミュージシャンやクリエイターの人たちとの即興的なコラボを追求してみるとか、欲張らないで「餅は餅屋」的愉しみ方ができるようになると、もっともっと彼自身も気づいていない可能性の広がりがあるんじゃないかと、「時空」を口ずさみながらつい余計なことも考えた、夕暮れの平城宮跡でありました。