スリリングな日々


インターネットがダウンした。今月2度目。サーバーではなく、このアパートの電気制御システムのトラブルなので、今は復活しているものの予断を許さない。帰国前のあちこち連絡取ったりしなきゃいけない時に、まったくもーっ。
4月、5月は私の月の天中殺なのだ。去年の今頃も引越し前に小さなトラブルが続き、予定が全然スムースに進まなくてひどい目に遭った。


剛っさんは去年と今年が天中殺。何かアクションを起こそうとしてもモノゴトが思うように進まない。ボタンの掛け違いみたいなことが起きやすい。
なーんてのはいかにも加齢臭漂う発言かもしれないが、占いというのは突きつめたら統計学。天中殺なんて中国4千年の統計結果なのである。風水や占星術、姓名判断などとともに、長い間人々に信じられてきたのには、それなりの理由がある、と私は思うのだ。


中学生の頃、やたらと「今、右足からソックスをはく私と左足からはく私の未来は違うのだろうか」とか考えて、頭がおかしくなりそうになったことがある。
今は知らないけど、当時のナイーヴな乙女たちはけっこー本気で占いやジンクスを信じていた。雑誌などに載ってるそれらは、当然当たったり当たらなかったりするので、乙女たちは各々が自分なりに統計を取り研究開発したラッキーナンバーだの幸運のお守りだのを持って「運命」と闘っていた。


運命を信じるかと問われたら、信じるかもしれない、と答える。剛っさんの言うような「縁」というものを感じさせる「偶然」がいくつも重なるようなことがあると、自分が正しい、というか進むべき方角に進んでいるんだと思い嬉しくなるし、何か見えない力が、たどりつくべきゴールに向かって私を導いてくれている気がするのだ。


ツレアイはカトリックなので、ある時「カトリックにおける運命観」を聞いてみた。
それによると(注:どこまで本当か責任は持ちません(笑))、人生は列車に乗って旅をするようなもの。その列車が「運命」なので乗った(生まれた)時点でその人の「終着駅」は決まっている。ソックスを右からはこうが左からはこうが全ては列車内で起きていることなので、それが結末を変えることはない。
要は、人生という物語のプロットを組み立てていくのは自分。だが、どんなストーリーであれ、共演者は同じ列車に乗り合わせた「縁」のある人々であり、その結末は「神のみぞ知る」ということらしい。


「どんなに頑張っても結果が同じじゃ誰も努力なんかしないじゃん」と言う私に、「だからしなくていいんだって。やりたいことをやって楽しく生きるのが人生」とラテンの血は笑う。
彼らは転生を信じない。死んだらそこで一巻の終わり。だから楽しく生きることに貪欲なのか。数え切れない輪廻転生を繰り返し、学びを得て次のステージへ行く、その修行の旅が人生の仏教徒がなんだかドMに見えてくる。


あーしかし。剛っさんは沈没するは、インターネットはままならないは、アイスランドの火山は噴火するは、日本に巨大台風は接近するは、私は日本に無事帰れるんでしょうか。奈良のライブは無事決行されるんでしょうか。スリリングだわー、人生が。ここにはいったいどんな学びがあるのお〜っ。(涙目)