眠りにつくSHAMANIPPON


なんだか雲行きがあやしい。
今週に入って剛っさんのLove Fighterの更新が続いた。しかも完全に悲しみモードの。どうやら彼の信頼していた人との間に言葉の行き違いによる誤解が生じたようだ。おまけに始まったばかりのSHAMANIPPONのTwitterも突然「一度眠りにつく」ということは、タイミング的に問題は多分このプロジェクトに関することなんだろう。てことは、もしかして。


今日やっと日本から「音楽と人」が届いたので早速巻頭のインタビュー記事を読んでみる。内容からも4月10日以前のものとわかるので、まだこの時点では問題は起きていないはず。震災の精神的ショックから立ち直って、ここんとこ調子よさそうだったし。


ここでも、SHAMANIPPONプロジェクト、「縁を結いて」以後の周りの反応に関しても、「宗教っぽいことをしようと思ってるわけではない」と断るところから話は始まる。人に「宗教的」というイメージを持たれることに関しては「誰にどう思われてもいいと思い始めてから僕も強くなりました」と言い、「嫌な気持ちを与えてしまったら申し訳ないと思いつつも、そんなこと言ってるとモノ作りはできなくなる」と、クリエイティヴな仕事をする者としてのブレない気持ちを語っている。


とは言え、世間のリアクションを見てもわかるように、何かを一途に信じることが難しいこの時代に、剛っさんのように固い信念を持って前に進んで行こうとする人間を「宗教くさい」と胡散臭い目で見たり、理解不能なものとして畏れる人は思いのほか多いんだと思う。
でも彼の目はいつも外に向かってきちんと開かれている。外界とのコンタクトを断ち切り自分の内側の世界にこもってしまう新興宗教の信者の何も映さない空虚な目などとは全く逆方向のベクトルを感じさせる、強い意志の宿る目。それは彼の周りにいて、彼の仕事を見ている人たち、そしてファン皆が感じることだろう。


が、正直な話、最初SHAMANIPPONのコンセプトに使われている言葉や自作であろうHPのアートワークを見た時、私も動揺した。
私のように長く生きてて、彼のチョイスしたそれらが過去にどんな意味を持ち、どんな風に利用されてきたかを見てきた者には、単なるコンセプトアートと片付けにくい生々しい宗教のイメージを生み出してしまうキーワードが多くて、「なんでわざわざこんな誤解を招きまくるようなことをするんだろう」と思えたのだ。それは今もなんとなく私の中でくすぶり続ける疑問なので、今回のように何か問題が起きたくさい、となるとつい想像がそちらに行ってしまう。


実際のところ、若い世代にはそれはまた全く新鮮なものとして映ったのだろうし、当然彼とてそこに特別な含みをこめたわけではない。インタビューを読んでいても、そのインパクトの効果を含め、自分なりの表現方法を歪めたくなかったと言っているだけだし、彼としては単に「誤解を恐れず自分のやりたいことをあえてやった」というところなんだと思われる。それはアーティストとして正しい姿勢だと思うし、その結果として自分が世間から誤解を受けることに関しては覚悟ができていたのだと思う。
だからこそ、もし今その彼のクリエイションから派生した誤解が誰か大切な人を傷つけてしまったのだとしたら、大切な信頼関係にヒビを入れてしまったのだとしたら、彼の受けたショックはさぞ大きいだろうと思ってしまうのだ。


ま、これは私の勝手で下世話な想像なので、真相は剛っさんのみぞ知る。
なんにしても、アルバム制作の真っ最中なはずのこの時期に、一体何が起きたんだろうとファンの心は揺れるわけで。
絵文字とともに「剛さん、信じています」なんて、おばはんこっぱずかしくて書けないけれど、思わず遠方より東の空などひとり眺めてみる。