パーソナルな神様


「縁」というものを意識したのっていつ頃だろう?と、考えてみる。
ウチには祖母が同居していて、彼女がその言葉をよく口にしたのを覚えているから、小学生の頃にはなんとなく意味もわかっていたような記憶がある。おじいちゃん子だった剛っさんも、きっと同じように年寄りの口から何度もその言葉を聞いて育ったのだろうと思う。


宗教、というとものすごい拒否反応を起こす人がいる反面、そういう年寄りから口移しに自然に日本の宗教観を植えつけられた人間には宗教アレルギーのようなものが少ない気がする。
というのは、結局今も昔もその宗教観というのは、太古の自然崇拝、神道、仏教のいろんな要素の中から日本人が自分たちにとって「しっくり」くる部分を抽出して作った「ここで生きていくためのルールブック」のようなプラクティカルなもの。信仰心というより、放っておくと傲慢になりがちな人間が敬い畏怖するような「絶対的な存在」によって、ものの善悪=コミュニティーの和を保つための倫理観をガッツリ植え込むための先人の知恵とでもいうものだということを知っているからだ。
「縁を大切に」というのも、「汝の隣人を愛せ」ということですしね。


例えば、ウチのばあさんはあまり信心深いタイプではなかったように思うが、ある時何を思ったのか小学校低学年だった私に「地獄とはこんなに怖いところである」という絵本を買ってきた。生きてる時に悪いことをした人間が釜でグラグラ煮られたり、鬼に食われたり、阿鼻叫喚の無間の責め苦に遭っている、その地獄絵を私は今でも忘れられない。完全にトラウマ。PTSDである。
まだ柔らかい脳味噌の一番奥にそんなもんを刷り込まれた人間はオトナになってもとんでもない悪人にはなれないんじゃないかと思う。


とは言え、今も地獄を信じて善良100%な人生を送っているわけでもなく、刷り込まれた教えを適当にアレンジして生きているわけだけど、トシを取って人生振り返ってみると、この刷り込みというものの有難さがわかる。
なんと言うのかな、こういう絶対的な「善悪」の基準があったから逆に自分は思う存分反抗ができたし、何故だろうと一歩踏み込んでモノゴトの裏表を考えたりできた気がするのだ。その結果、自分なりの「絶対」が創りやすかった。


堂本剛という人もそういう意味で信心深い家庭に育ったのではないかなとよく思う。悩みも多そうだけど、芯のところで何かその絶対的な存在を信じているからブレない、折れない、しなやかなしぶとさが彼にはあるように見える。


今改めて彼の肩越しに世間を見渡すと、この否応なしの刷り込みを得にくい核家族時代の「新しい流れ」のようなものが見えてくる。
村上春樹の「1Q84」も、システムの中で個人を貫く孤独や何かを信じることが救いに繋がる、とういうようなテーマが受け入れられたようだし、「宗教の神話性みたいなものは信じられない」という若いアーティストが東洋思想に拠りどころを求めたり、何かみんな試行錯誤しながらもそれぞれに瓦礫の山から好みのパーツを拾い集めて「パーソナルな神様」を創ろうとしているのが見える。
古いとか新しいとかではなく、「しっくり」くるものを皆求めているんだなと思う。それは今も昔も変わらない。押し付けられたものがしっくりこないなら自分で自分の「絶対」をクリエイトし、信仰していけばいい。
そんな流れに合流する若い世代がどんどん増えていくといいな、と思う。