「わからない」という愛情


イースター休暇が終わりました。ツレアイの実家にてヨメとして例年のごとく家族サービスに努めてまいりました。当地のイースターに食べるケーキやら肉料理やら姑の大盤振る舞いを黙々とたいらげ、帰りには巨大な卵型チョコレート(中におまけが入ってる)のお土産までもらって、小学生かっつーの。
あー疲れた食いすぎた。とっとと日常モードに戻らねば。


今回、近くに住む親戚なども入れ替わり立ち代りやってきて、そのたび震災話になると出たのが、震災でパックリ割れた常磐自動車道の一部をたった6日間ですっかり修復したニッポンの技術力と勤勉さ。あれには日本人でも驚いたけど、こっちのひたすらチンタラしたエンドレスな道路工事しか知らない人々にはもう驚愕を超えて笑うしかないアンビリーバボーさだったらしい。多分あれは孫子の代まで語り継がれるであろう。
「あんたたちなら3年もあれば復興作業は全部終わるでしょ」と言われたけど、う〜ん。問題が土木技術と勤勉さだけなら話は早いだろうが、その作業に取り掛かるまでの政府のなんたらかんたらが長いのだよね、ニッポンは。特に今回は被害の規模から言っていろんな特例を作る必要があるから、そういう「前例が無い」ことを決めるのにえらく時間がかかるのだろうなと思ってつい暗くなる。


23日のFashion & Music Bookでも引き続き被災者されたファンのメールを紹介してた剛っさん。その中でこんなことを語っていた。


《 いろいろな人たちがいろいろな形を通して「頑張れ」って言ってるけど、頑張ってる以上のことをしている人たちに僕は「頑張れ」とは言いたくない。頑張るという言葉を慎重に扱ってるところがあって。
現実を受け止めるのは大変。でも受け止めなくてはならない時もいっぱいある。そんな時は一人で受け止めきれなかったら誰かに甘えたり頼ったりしながら受け止めていく。本当に自分一人が受け止められる量っていうのは一人一人違って、あの人ができるから自分もできるっていうことではない。自分にしかできないことがあるっていうことを思い出して感じ考え行動する。
こうしてお便りを読ましてもらってるけど、いろいろな気持ち、全てはご本人ではないから理解できない。これ、僕の現実の答え。ただ理解したいと思ったからこの手紙を読もうと思ったし、今読みながら言葉を零しながらその想いにできるだけ寄っていこうと思って、今いろいろな気持ちを綴った 》


「ご本人ではないから理解できない。ただ理解したい。その想いにできるだけ寄っていきたい」
剛っさん、やっぱり一番大事なことがわかってる。これほど誠実な言葉はない。
みんなTVの悲惨な映像とかで簡単に被災者の気持ちがわかった気になってしまったりするけど、自分の町を、家を、家族を失った人の気持ちは同じ被害に遭った人でなくては絶対わからない。
でも、そう言うと冷たいと思われるから安易に「わかりますよ」と言い、つい本気でわかったような気になってしまうこともある。
確かにそれが自分の思いを伝える言葉と違っていても、公の場ではそう言わなくてはならない時もある。元々日本人は悲しみ苦しみを表に出さない。悼む気持ちを「お約束」の言葉の奥に精一杯込め、そしてそれを黙って受け取るのが日本の礼儀の形だからだ。
だからこそ、正直に自分の辛く苦しい想いを吐き出したファンに対して、同じく正直な気持ちを真摯に語った彼の想いの深さは、まっすぐにこちらに伝わってくる。


被災者の気持ちになり代わって書かれた「海が憎い」で始まる某剛さんの詩があれほどバッシングを受けるのは、その「わかる」と信じている彼の傲慢さを人々が感じたから。
それよりも「わからない」という愛情を私は信じる。