ソーシャルジャーナリズム


今週のFashion & Music Book、「赤いSinger」という曲に込めたメッセージと絡めて、またしみじみと現実を見ることの大切さや自分らしく生きるということについて語ってました、剛っさん。
とは言え、彼は成功したアーティストだから、「やりたいことをやる」というのが「自分を表現すること(クリエイション)」であり、そしてそれが「生活の糧になる」というわかりやすく、かつ恵まれた環境にあることも確か。


これを、例えば一般人の32歳サラリーマンはどう受け止めるのだろうか、と聴いていて思った。
日本のサラリーマンでやりたいことをやってる人なんてほんの一握り。
「やりたいことはあるけどそれじゃメシが食えないからガマンしてサラリーマンやってるうちに結婚して子供ができてローンで家建てて益々身動きできなくなって毎日往復3時間かけて通勤してるうちにやりたかったことが何だったか忘れてしまう」、ってのがよくあるパターンだ。
「魂を売るな」とか言うけど、魂ってのは売らなくてもいつのまにか銀行の抵当に入っていたりするのだ。そんなニッポン社会で32歳の「胸の鼓動が高鳴る」のは不吉な予感にだったり、単に「動悸」だったりする。


と、そんなことを考えていたら、こんなブログ記事を目にした。
「社会貢献を面接で語る学生を皮肉ってる場合じゃない件について」。
http://d.hatena.ne.jp/iammg/20110415
『もはや、自分の頭できちんと思考ができ、やる気のある若者は既存のシステムに超絶飽きているのだ。そんなものよりもずっとドキドキできてワクワクできて自分の限界に挑戦できそうな、難問が世界中至る所に転がっている、そして今ならそれらが昔よりもずっと鮮明に可視化されているのだ』
『いま、世界じゅうの感度の高い若者は、「精神性」の復興に着手し始めているのだ。そこは今、荒野である。まさに戦後日本が焼け野原であったように、なにもないのだ。そして、今の若者は、その荒野に旗を立てていく活動を始めている』


なんかね、すごい人が現れたというかんじ。すごい「世代」というべきか。戦後&バブル後の焼け野原にも着々とこういう人たちが育っていたんだ、不況しか知らずに育った世代が今社会に向かってモノを言い始めたんだ、と今会社で使えない上司ナンバーワンと言われるバブル世代のわたくしなんぞ、思わずPC前正座して読んじゃいました。
これだけだと「若さゆえのオプティミズム」とか皮肉の一つも言いたくなる人もいるだろうが、彼女のブログを読んでいくと、その言葉のうしろにとんでもなくクリアなビジョンと確信があるのがわかる。
彼女は言う。今、「旧来のシステムに乗らなくてもいい環境が整ったのだ」と。
・・・ちょっと泣いていいですか。


その目指すところはTwitterやSNSを利用した「ソーシャルジャーナリズム」。
従来の新聞、雑誌といったナショナルメディアはその「国民国家」という想像を皆で共有するために役立ったが、このソーシャルメディアにおけるジャーナリズムにより生み出された想像の「共同体」は、私たちにとってよりリアルなものになるだろう、と言う。


ひろゆき氏なんかのやっていることとまるで同じだし、剛っさんのやってることもジャンルは違えどベクトルは全く同じ方向を向いている。「宗教」ではなく、考えを同じくする人々の「国」「共同体」をつくることでリアルを追求する。新しい世界への突破口を開く。
おセンチで言ってんじゃなく、私は彼らのこのアクションは、ムーヴメントというだけでは終わらない気がする。自分探しの時代は終わった。自分は自分でしかなかった。とわかったところで、次はそのリアルな自分がリアルであるための環境が必要なのだ。


大本営発表に終始した震災時の従来のメディア。私が欲しいと思った情報を流していたのは、その管理下にないTwitterやブログや動画サイトという新しい媒体だった。
不謹慎を承知で言わせてもらえば、この震災における「怪我の功名」は彼らの存在、この新しい潮流を世に知らしめた、この一点に尽きる気がする。
むろん彼らはマジョリティーではないだろう。だが、今の閉塞的な日本社会を変えていくとてつもないポテンシャルなパワーを持ったマイノリティーだと思う。


かつて私たちが「新人類」なんて呼ばれた頃、敵は団塊の世代だった。彼らは口が達者でとにかく数が多く手強かったが、今「突破口」の前にいるのは、まだその魂の救済を待つへタレバブル組だ。
・・いける。そんな気がする。