以心伝心


夕されば 小倉の山に鳴く鹿の 今夜は鳴かずい 寝にけらしも  (舒明天皇)


夕方になると小倉の山でいつも鳴いていた鹿の声が今夜は聞こえない(もう一緒に夜を過ごす相手を見つけ)寝てしまったのだろうか


うっ。一体何十年ぶりなんだ、万葉集なんてっ。
この万葉集の一首も、剛がJR東海の「ひととき」エッセイの中で挙げていたもの。こんな風に古代人のように自然を感じて生きたい、そうで。


堂本剛に手を引かれ、気が付くと日本史とか古典とかかつて一番不得手としていた分野に分け入っている自分に気づく。
ムダに元気なだけな中学生だった私は万葉集になんかにゃこれっぽっちも興味がなかった。てか、古典のツボなんて中学生にゃわかんないし、似たような名前ばかりが並んで覚えにくくてしゃあない日本史が得意なのは、家族で大河ドラマ観てる男子くらいなものだった。


が、こうしてある種不純な動機を得てするお勉強の楽しいことったら。楽しすぎてつい調べ物に熱中するあまりここんとこ眼精疲労がハンパなくて死にそうです。実は。


今回の「縁を結いて」も散文詩のようなものだから、「十二色って何だよ」「一色て」と思ってる私のようなファンは多かろうと思う。語呂合わせもあるだろうから、追求しすぎても何も出てこないかもしれないけど、でも追求したくなってしまう。
あの時代で「十二色」といえば聖徳太子の「冠位十二階」かな(これは後に山岸凉子の「日出処の天子」を読んだから覚えてた)とか、「一色」は何色というより「一途に」「沢山の色はあるけれど迷いなくこの道をゆくあたし」の意かな、とか。


でも、Mステ観て思ったけど、剛の声は歌声そのものがストレートにメッセージを伝えてくるから、歌詞の意味ってあまり関係ない気がする。
彼としてはそんなことを言われるのは心外かもしれないが、私としては歌詞なんて実はどうでもいい。彼の言葉は余計なものを一切そぎ落としたシンプルなものだから読んだだけだと単純なように見えて実はわかりにくく、時には弱々しく感じられもする。が、それが一旦彼の歌声に乗ってしまうと、そのシンプルな言葉の一音一音が生命を吹き込まれ、聞き手の心のより深いところに直に触れるから「言葉としての意味」を理屈としてとらえる必要がないのだ。
以心伝心。彼の歌声にはその力がある。


だから剛っさん、語らず、歌え。あんたの「理屈ではないもの」はそのとおり、言葉だけじゃ伝わらない。