堂本剛 言霊のひと<後編>

<前回のつづき>


言霊の生きている世界では、言葉は単なる記号ではなく、言葉を発した人間の分身であり、その実体そのものとなる。
これは、もし言挙げをした本人が死んでも「その願い」はこの世に残るということ。
剛が時々ちょっとヤバいんじゃないかと思うようなテンションで「愛」を繰り返し唱え叫ぶのは、その不滅を信じている、もしくは信じたいから。


彼はある時こんなことも言ってる。
「愛は求めるものではなく放つもの。僕が放った愛をファンがキャッチして一体化する。その至福感がエネルギーとなり次のクリエーションを生む」。
この考え方は「霊気(レイキ)」というヒーリングのあり方とも一致するように思う。
霊気はいわば日本式の気功とでもいうもので、自然界のエネルギーを使うヒーリング方法であり、施術者が取り込んだ自然のエネルギーを掌を患者の身体に当てることで澱んだ気の通りを良くし身体全体を癒し清め活性化させる。施術者はいわば自然と人間の間でパイプ役を果たすだけで、エネルギー自体はまた自然に還っていく。無限のエネルギー。無限の愛。※


言霊もまた「自然界の万物に魂が宿る」という自然エネルギー信仰のひとつ。   
古代では言葉でもって自然界の力を自在に操り優れた歌を詠む歌人は、呪術師であり言霊という魔力を使える魔法使い、あるいは超能力者のような存在であった、と思われる。


多分そんな存在を意識して剛はSHAMANという言葉を使おうと思ったのではないかな。歌を詠む者として。


ただ、ちょっとダメ出しさせてもらうと、剛は言霊を信じるあまりやや言霊依存に陥ってやしないか、と思うことが多いのだ。
先週のF&MBでも、「自分が他からどう求められている客観的にわかる」「直観力がずば抜けている」「世の中のことを全て俯瞰できている」「全て計算ができている」「いつも周りの声に耳を澄ましている」とまあ「こうあってほしい」と思うこと言いたい放題。(笑)
経験的に、こういう自画自賛タイプは実は自信のない人に多くって、本当に自信のある人は黙ってるもんです。
Love Fighterでも日に何回も更新があって、「愛してます」だの「君たちとなら戦える」とか書かれていると、「ああ、なんか不安なことがあるんだな、と感じる」なんてファンの発言もあるんですよね。
おっさん、バレとるやんけ。


言霊信仰は、ともすると大いなる他力本願になってしまう。
実際、言挙げはそれが「慢心」によるものだったりした場合、悪い結果がもたらされるそう。あまり何でもベラベラ口にするのはやめたほーがいいってこと。


でも彼の澄んだ声を聴いていると、もしかしてこいつには本当にそんな力があるのかもしれない、と思ってしまうのがファンなのですが。


長くなりましたが、井沢元彦氏の著書にはそのものズバリ「言霊」というものもありますので、そちらもご興味があればどーぞ。
古代史を少しでも知ってると、奈良を訪ねる時楽しいと思いますよ。平城京の遷都にまつわる話とか、大仏建立の真実とか、こんな考え方もあるのか、と思って実際にそこに立って古代を感じると、剛っさんの考えてることももっとよくわかるのかもしれません。


<完>


※昨今の日本では、霊気セミナーは自己啓発セミナー状態になっているところも多いとのウワサもあります。かえって海外ではもっと普通に捉えられていて、こちらで何度か施術を受けたんですが、ものすごーく効いたんで、ちょっと残念です。