「プラトニック」#3 胃が痛いんだけど 


第3話。愛を持て余す登場人物たちの姿がよりはっきりと浮き上がってくる。


沙良を愛しているのに、会えば皮肉や無神経な言葉しか吐けない佐伯。いがみ合うヨメのことを愚痴りながらも浮気疑惑に気をもむ和久。そして、沙莉を失うことを恐れるばかりでその気持ちを思いやることを忘れている沙良。皆が、「仕方ない」という言葉で自分の行動を肯定しようとしている。


明日をも知れない同じ境遇の沙莉にシンパシーを抱く青年が、沙莉が病院で知り合った少年に抱くほのかな恋心を諦めさせようとした沙良に怒りをあらわにするシーンは強烈だった。


沙莉は恋に免疫がない。普通じゃない。あなたとは生きる世界が違う。と沙良は少年を説得する。苦しんだり傷ついたりしないうちにそこから遠ざけるのも、身体を気遣うためであって「仕方がない」。沙莉に頼まれて、連絡の取れなくなった少年の学校へ連れて行き、発作の原因を作った和久と、それを焚きつけた青年をなじる沙良に、彼は時に声を荒げながら言う。


「カタルシスが欲しい。人はどんな人でも、普段社会や家庭で報われない人ほど心の奥でカタルシスを欲しがっている。生きる意味、です」


「沙莉ちゃんは感謝しているはずです。悲しい現実を思い出して胸が締め付けられるようにキュンとする。これから思い返して泣いてしまう夜があるかもしれない。センチメンタルな夜です。それでも何もない夜よりはるかにステキな夜だからです」


「誰だっていつかは死ぬんだ!いいですか、生きることとただ生きてることは違うんです。まるで違う。想いがつのるのだって、何が悪い。抑えつければマグマのように中で煮えたぎるだけだ。やがて、心が崩壊してしまう」


明日を無条件に信じられる者、自由を自由と感じられる者には「仕方ない」と切り捨てられる者の気持ちはわからない。死と隣り合わせにいる者だからこそ生きている実感が必要なのに、それを「死なせないため」に奪おうとする身勝手な沙良への青年の怒り。
彼は「愛する」ということと「生きる」ということの意味を問い続け、気づかないうちに沙良と周りの人たちに小さな変化をもたらしてゆく存在なりつつある。


ドラマのエンディングと次回予告の間に、彼の発病からの2年間を綴る短い物語が挟まれる。今回は、病院帰りにその元カノが自分の友達と仲良さげに手を繋いで歩くのを目撃した、その日の青年の姿。思い出のスケートリンクで、膝を折りかすかな光に何かを乞うように手を伸ばし、独り絶望の涙に暮れる。「なぜ自分が」という、苦しみ、悲しみ、憤り・・・。
普段もうすべてを達観したような穏やかに微笑む彼の中にも、煮えたぎるマグマやカタルシスを欲する心は存在する。だが、それは彼女の未来を考えたら永遠に封印し続けなくてはならないものと彼は考えた。


しかし、今回の剛さんの演技はなんと表現したらいいのか。またボキャ貧の私にはいい言葉が見つからない。
スタッフさんのツイによると、野島さんのこの脚本にはト書きがほとんどないのだそうで、俳優たちの演技はそれぞれが脚本をどう理解したかということの答えとなっている、ということだった。


剛さんの演技に思うのは、この青年の表情や言葉に表れる感情は彼の中にも等しく存在しているものに違いない、ということ。私たち観る者の心を鷲掴みにするのは、その演技だけではなく、物語に触発され剛さんの奥の方から堰を切るように流れ出してくる「もの」なのだ。それが、堂本剛という人間とこの「青年」との境目をどこまでも曖昧にし、物語に魔訶不思議なリアリティーを与えてゆく。


結論。このドラマは、観る者の心身にどえらいストレスを与える。そのへヴィーなインパクトはボディーブローのようにじわじわと効き、私たちは悶々鬱々とした月曜の朝を迎えるハメになる。しみじみと「アカンやつ」なのである。
(真面目に終わろうと思ったけどグチになりました。だってほんとに胃が痛いんだもん)