桜の頃に


もう何年桜の頃に日本へ帰っていないだろう。
家族や親戚が揃う時期にと、お正月に里帰りをすると、なかなか3月4月には帰れない。


東京に暮らしていた頃、よく吉祥寺の井の頭公園に桜を見に行った。
まだ少し肌寒い春の宵、大通り沿いにある酒屋さんで缶ビールを一本買い、公園に続く細い路地をぶらぶら歩いて行くと、だんだんと濃くなる闇の中に桜の気配がしてくる。匂い、ではない。そこに桜がある、という気配。


「百万」という能の演目がある。実は今年4月に夫に京都への出張の話があり(結局立ち消えになったが)、その時に嵯峨清涼寺の「嵯峨大念仏狂言」を観たいと思い調べていて行き当たった。奈良、しかも西大寺が舞台のひとつとなるところに惹かれて読んだのは、こんな話だ。


奈良の西大寺のあたりで幼い子を拾った吉野の僧が、ある年の桜の頃、その子を連れて京都嵯峨の清涼寺を訪れる。門前の男に何か面白いものはないかと尋ねると「百万」という女物狂いの踊りを勧められる。
男が下手な念仏を唱え出すと百万が現れ、自ら念仏の音頭をとり、仏前に我が子との再会を祈りながら狂ったように謡い舞い始める。
すると、それを見た子どもがその女が自分の母親ではないかと思う。僧がそれとなく百万に事情を問うと、夫と死に別れ、西大寺の柳の陰で子とも生き別れた。嘆きのあまり心が乱れ、あさましい姿となりながらも、こうして人の集まるところで舞を奉納しては子を捜しているのだという。
僧は百万が子の母親であると確信し、引き合わせる。仏の導きで再会出来たと喜ぶ百万は、我が子を連れて奈良の都へと帰っていく。


遠い昔に、日本人はこの無言劇の傍らに桜を置いた。
剛さんの「ソメイヨシノ」や「春涙」に歌われたような、人の「失くしたもの」への嘆き、愛しい姿を追い求める叫びを、桜は掬いとり呑みこんではまた花を散らす。闇に白く浮かび上がる姿が「もう会えないもの」の気配を想わせ、微かな匂いが「もう触れることのできないもの」の温もりを蘇らせる。


いつか桜前線と一緒に、ふらりと旅に出てみたい。
来年は春に帰ろうかなあ。剛さん、春にライブしようよ。