「K」のリリースに「J」を思ふ


KinKiの「K album」、その豪華絢爛な作家陣に驚くとともに、今更ながらKinKiというユニットのコンセプト=立ち位置というものがよくわかった気がした。


にわかファンの私が初めて買ったのが「J album」。何度かここにも書いたようにその第一印象は「これが今KinKiに求められていることなの!?」。ひらったく言えば「今なんでこんな古いことやってんの?」だった。
使い古しのようなフレーズの数々から紡ぎ出される、曇り空に鳩を放つような、遠い日の花火のような、モノクロな風景。どこまでも内省的かつ若さゆえの逡巡に満ち溢れた、ちょっと閉塞的な湿り気を帯びた一昔前の青春像。なぜ今コレ?と、なんとなく腑に落ちないまま、後にKinKiのアルバムを時系列で聴いていって、ある時フと思った。「あ、Jってもしかしてニューミュージックなんだ」。


1997年、ユーロビートなどダンスミュージック全盛の時代に、歌謡曲の香りのする「硝子の少年」でデビューしたKinKi。それは明らかに一昔前の音を意識したプロデュースであり、その洗練された松本隆×山下達郎という音楽職人によるとびっきりの「レトロ」な曲調は、聴く者に新鮮なセンセーションを与えた。その後もKinKiの曲はどれも時代と融合することなく、日本の歌謡曲の王道をひたすらに進む。


彼らの曲をクリエイトしてきたのは、歌謡界、フォーク界、アメリカンポップスなどに影響を受けたシティー派のミュージシャンなど、バックグラウンドを異にする人たち。この彼らの音楽、最初はカテゴリーが全く別だったのだが、70年代に入り次第に融合してゆき、いつしか「ニューミュージック」という新しいカテゴリーが出来上がる。
当時は高度成長期でアーティストにもレコード会社にも夢があったから(笑)、今ではちょっと考えられないほど時間とお金をかけて、ニューミュージック=実力派と言われたアーティストたちが腕によりをかけたアルバムが制作された。まだまだJ-POPなんていう言葉は影も形もない頃だ。


KinKiの「J」には、そのニューミュージックの初期の頃の、フォークのナイーヴな抒情と、ポップスの洗練された都会の憂鬱の融合があり、そこに彼らの歌謡曲の哀愁を感じさせる声が重なることで、見事なKinKi版2009年のニューミュージックが成立していたのだ。それは歌謡曲からニューミュージックへの日本のポップス界のハイブリッド的進化と、KinKiというユニットの成長を重ねた演出だったのではないかと今になって思う。彼らはそのスタートとなったレトロな世界は、今も密かにレトロに時を刻んでいたのだ。
(もっともレトロというのはその時代をリアルタイムで生きた世代には単に「古いもの」としか感じられないものでもある。若いリスナーにはひたすら新鮮に映ったであろうが。KinKiや剛っさんの世界を知り始めてから、いろいろと視点を変えて世界を見れて、きっとこれはよいことよね♪)


ちょっと話は脱線するが、括りこそいつの頃からか「J-POP」となっても、基本的に日本のポップスは皆「歌謡曲」との混血だと私は思う。こじゃれたアレンジが施されていても、それは昔ながらの他のどこの国のものでもない、日本のメロディーだから。パッケージやデコレーションが変わっても材料は皆同じ、当然テイストも舌触りもどこか似ている。その昔、坂本龍一が言った。「日本にどんな外国の音楽が入ってきても、いつしかすべて日本風の洗練のされ方をしてしまう」。
人はどんなに外からの影響を受けても、いつの間にか自分にとって耳障りのいい音を探してしまうものなのか。無意識はDNAにコントロールされている・・?


それにしても今回「K」で気になるのは、意味ありげに一曲目に置かれたドリカムの二人による「願う以上のこと 祈る以上のこと」。
「願うこと・・・」はまだ歌詞もわからないけど、なんだかこの曲を唐突とも思えるトップに置いたのは、タイトルからしても、今回「unplagged」バージョンまで入る(初回限定盤のみ)二人の共作である「Family〜ひとつになること」に歌われる世界と、大きな共通点があるからじゃないかとも思える。それがもしかすると、これからのKinKiの世界の方向性を示唆しているのかな。


アルバムでじっくり「ニューミュージック」もいいけど、私個人としてはシングルでは歌謡曲テイストを失わずにいろいろ新しい試みもして欲しい。そういう意味で「Time」は面白かった。もちろんふたりの共作も聴きたいけど、彼らのドラマティックな声でいろんな物語を聴いてみたい。二人のユニゾンの説得力は無敵だ。「K」のリリースが待ち遠しい。